性善説と性悪説はキリスト教では「ヘレニズムとヘブライズム」という座標軸と「汎神論と超越神論」という座標軸にある程度重なってくる。

キリスト教にはストア派の「自然法」や新プラトン主義の「流出論」「汎神論」といったヘレニズムの思想と、「終末論」「超越神との契約」といったユダヤ教の思想が合流している。

ヘレニズムでは自然の中に神がいる。ヘブライズムでは自然と神は隔絶している。


前者が性善説に、後者が性悪説に近くなる事は誰でも分かるだろう。

ヘレニズムを復活させようとしたルネサンスは性善説的であり、逆にカルヴァン派はユダヤの恐ろしき神に最も近づいたキリスト教である。ゴシックの時代はその中間くらいだ。



キリスト教は原罪の教義(これは性悪説のキリスト教的表現である)により、性善説的なヘレニズムに徹する事はできない。

汎神論は16世紀まではタブーであり、汎神論と見られると異端審問にかけられた。

だから汎神論者はヘルメス・トリスメギストスやディオニシウス・アレオパギダのように偽名を使って論文を発表した。


一方、キリスト教はユダヤの立場に近づきすぎてもいけない。パリサイ派の律法主義の形式性を激しく批判したのがイエスだったからだ。

結局キリスト教はヘレニズムにもヘブライズムにも徹する事ができず、両極の間を時代によって揺れ動く事になる。






ヘレニズムでは規範、道徳は人間の内側から発するものである。それが自然法だ。

ヘブライズムでは規範は神から命令される「外的強制」である。モーセの十戒、パリサイ派の律法がそうだ。


ヘレニズムとヘブライズムという座標軸上にヨーロッパ精神史を位置付けてみると次のような表を作れる。


 
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