この記事は、これまで僕の中で統合されずに並存してきた思想史的アプローチと神秘主義的アプローチを結合する、僕にとっての最大の飛躍である。



①    太陽  月     大地

②     光        火  

③   透明                混沌
 

④   孤立粒子   湿った泥土

⑤   結晶     コロイド溶液

⑥   幾何学    生物学

⑦ 直線の時間     円環の時間    

⑧   砂漠           モンスーン

⑨  ドライ           ウェット

⑩   意識               無意識  

⑪    昼                    夜    
           

⑫  古典派    ロマン派


⑬  近代的    太古的
 

⑭   分裂                 統一

⑮  他教排斥     万教融合

⑯  一神教    多神教

⑰   顕教                密教


⑱  父権的    母権的


⑲  地動説            天動説


⑳   樹状            リゾーム状


この理念型はヘルメス文書、バッハオーフェン、ノイマンなどを踏まえた相似象の束である。

相似象は比喩以上の何かでありそこに深い摂理が現れていると僕が見なすものだ。


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①    太陽    月       大地

②     光          火     

③    透明                   混沌



まず①、②、③辺り


「原初の混沌」を邪悪な蛇と見るモチーフはバビロニア神話のティアマト、エジプト神話のアポピス、ゼウスと闘うテュポーン、インドラと闘うヴリトラなど神話に多く見られる。

これに対し「原初の混沌、蛇が隠された価値を持つ」というモチーフも神話の中に散見される。黄金の林檎を守る竜のラドン、デルポイ神殿でもともとガイアを守っていた竜のピュトン、金羊毛を守り一度イアソンを呑み込んだとも言われるコルキスの竜など。(下図)
 

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                           イアソンを吐き出す竜


これは、原初の混沌を邪悪、下級なものと見る父権的世界観と、逆にその混沌に大いなる価値を認める母権的世界観が闘っているのだと考えたのがバッハオーフェンの母権論であった。

バッハオーフェンの母権制、ニーチェのディオニュソス、フロイトのリビドー、ユングの否定的マザー、ノイマンのグレートマザーなどの理論は、大地、泥土に価値的源泉を与える理論的根拠、明るい昼の文化の背後に隠れた闇の文化の系譜学となっている。



大地母神が復讐の蛇となり得る事はエジプトのニトクリス女王の伝説が示している。 
またアガメムノンを殺した妻のクリュタイメストラ、母を殺したオレステスにつきまとう復讐の女神エリニュス、イアソンの新しい妻を殺すメディアなどギリシャ悲劇にも繰り返し表現されている。

「大地母神を護る竜」というモチーフは非常に普遍的で例えば浦島伝説の竜宮も本来は亀ではなく蛇だったと言われているし、現代でもこんな映画に現れている。https


この普遍的で明確な理念型をバッハオーフェンが断定できなかったのは蛇がもう一方では男性器の象徴ともなるため整理がつかなかったのだと思われる。ノイマンの「ウロボロス」の概念はそこを説明する原理となり得る。http
原初のウロボロスは両性具有であり、それがグレートマザーとグレートファーザーに分裂する。


グレートファーザーの蛇は単なるファルロス的権力支配に退化するのに対しグレートマザーは「守護神の蛇」ともなり「復讐の蛇」ともなる。  
男性は打算や野心のために残酷になり得るが女性はただ「復讐」のためにしか残酷になれないからだ。こんな風に元型の系統樹を推定してはどうだろうか?


そしてこの両義性を持ったグレートマザーの極端な例がインドのカーリー、ギリシャのゴルゴン、アステカのコアトリクエである事をノイマンは力説してきたわけである。








④ 孤立した粒子   湿った泥土

⑤    結晶      コロイド溶液

⑥   幾何学      生物学


結晶とコロイドの関係は鉱物と生物の関係に相似する。

泥土は水と土のコロイド状態である。無機分子の溶液は透明だがコロイド溶液は濁っている。この混沌から成分が分離、結晶する過程は無機化学の分野であるのに対し生物の身体のほとんどはコロイドの状態にある。

結晶化と溶解は溶解度曲線の幾何学的な座標平面で図示できるし、結晶も幾何学的な構造をしているのに対しコロイド分散系はコロイドの大きさや帯電の状態が微妙に変化し、解が一義的に決定できない世界となる。これが生体コロイドとなればなおさらだ。

血液は液体の血漿に固体の血球、血小板が溶けたゾルであり、骨もスポンジ状の隙間を骨髄液が埋めた状態である。(下図)
これは広い意味で一種のゲル状態と見なす事もできるだろう。
 
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そもそも細胞が原形質の液体に様々な小組織が浮かんだコロイドでありゾルとゲルに相互転換できるようになっている。https

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コロイド状態の泥土は太陽光や火で熱せられる事で乾燥した砂粒となり、乾燥した砂も日常的に水と混じっていればいずれは粘土となり泥土となる。


結晶の原理は「生命を捉えなおす」で書かれていた様に「自由エネルギー最小化」の原理に従い、動的秩序は逆に自由エネルギーが常に流入する事で均衡が不断に破られる事を前提とする。

生物とコロイドの関係は中間にミセルやベシクルを置くともっと具体的なイメージを持つ事になる。親水基を外側にして集合したものがミセル、それを裏返して張り合わせたものがベシクルで、細胞膜の基本はベシクルと同じ構造になっている。
 

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⑦ 直線の時間          円環の時間

⑧ 砂漠気候     モンスーン気候

⑨ ドライな思考     ウェットな思考
 


⑦からは風土論的な平面へと移行する。

極端な乾燥気候(砂漠)では自然は死であり自然の中に神は無い。従って神は超自然となり超越神となる。


和辻哲郎氏は「風土」の中でイエメンの港湾都市アデンの山の印象をこう語る。

>そこには青山的人間が「山」から期待し得る一切の生気、活力感、優しさ、清らかさ、爽やかさ、壮大さ、親しみ等々は露ほども存せず、ただ異様な、物すごい、暗い感じのみがある。

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アデンの裸の山


逆に雨の多いモンスーン気候では自然は台風や雷の様な怒りの形相も示すが全体的には恵みであり、生命を育むものだ。カビやハエの様に生命は自然の中から湧き出てくる。森林も農業に適した柔らかい土壌も雨の恵みによって作られ小動物のフンがさらに土壌を豊かにする。こういう気候では自然=神と観念され易い。


以前「ヘレニズムでは自然の中に神がある。ヘブライズムでは自然と神が隔絶している。」と書いた。 http
今回の理念型は従ってヘブライズムとヘレニズムとも重なってくるし、もちろん「アポロンとディオニュソス」とも重なってくる。これは後にさらに詳述される。



乾燥気候では人間の思考も直線的になりやすい。幾何学が発達するのはギリシャやエジプト、中東など乾燥気候の風土の中である。さらに言えば湿度は非常に低く、しかし気温は砂漠地帯ほど過酷でないギリシャやアレキサンドリアが最も幾何学に適しているのだろう。

また規則的、数学的な音楽は聴く人にドライなものと感じられる。

モーツァルトのピアノソナタ K545やバッハのブランデンブルグ協奏曲が幾何学的な印象を受けるのは音の規則的な構成だけでなくそれがドロドロした情念を感じさせないからだ。

               


イスラムのモスクやエジプトのピラミッドも乾いた幾何学性を感じさせる。
 
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  人工的、幾何学的なシェイク・ザイード・モスク(アブダビ)



乾燥気候は人間関係をドライにし闘争的にする。モンスーン気候は人間関係をウェットに、繊細にし、平和な民族性を作りやすい。古代ギリシャのヒポクラテスはアジアの民族が平和を好む静かな心情を持つ事を指摘しその理由を四季の変化に乏しい事に求めているが、温和な気候と温和な性格の間には非常に大雑把な相関関係は有るかもしれない。

和辻哲郎はそれに加えて「湿度が防ぎがたい故に自然への対抗心を引き起こさない事」「暴風、旱魃などが対抗を断念させるほど巨大な力である事」「自然が恵みである事」を挙げ、モンスーン気候が「自然に抱かれた人間」「忍従的性格」を作ると論じた。

一見説得力を持つ様にも見えるが、ここに挙げた「防ぎがたい」「対抗を断念させる」自然の性格は砂漠気候にも共通する。僕がモンスーン気候と涙もろく繊細でウェットな性格、平和志向などは医学的に説明できず、比喩以上の相似象を考えざるを得ないのはこの点にある。



幾何学的思考は死生観にも現れる。砂漠が生んだ超越的一神教は一回限りの生と直線的な時間に結びつく。逆にモンスーン気候では蒸発した水は雨となって循環し、死んだ生物は肥料となって循環する。この様な気候では生命や時間自体が循環するものと考えられるのは自然な事だ。


ギリシャでもピュタゴラスは転生を信じていたが恐らくそのアイデアはインドからペルシャを通して伝わったと思われる。輪廻転生の観念が広く大衆に浸透するのは東方宗教と混合したヘレニズム時代、オルペウス教の中である。

乾燥した砂粒は幾何学的、直線的な結晶であり、それは乾燥気候の生む直線的な時間、直線的な思考と連動する。また乾燥した砂粒が手ですくってもサラサラとこぼれ落ちる様に人間関係もドライで自立性が強い。

湿った泥土はコロイド状態で水和している様に、人間関係も集団主義的になり、モンスーン気候の宗教観は循環的なアニミズム、循環的な輪廻転生論、循環する時間感覚と結びつき、その循環の円はコロイドの球形と共鳴し、円満な平和志向とも響き合う。これらが単なる比喩以上の何かである事が納得して頂けたのではないだろうか?






⑤    結晶     コロイド溶液

⑥   幾何学    生物学

⑫   古典派    ロマン派




さて僕のブログの古くからの読者は上のモスクの円と直線を組み合わせた模様から何かを思い出さないだろうか?
そうだ、これはイタリア式庭園(フランス式とも言われる)を連想させる。

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           幾何学的なイタリア庭園

イタリア式庭園はルネサンスの古典主義、もっと遡ればプラトンのイデア論に立脚する。

これに対抗する様に18世紀イギリスで生まれた「風景式庭園」はシェイクスピアの破綻するヒューマニティの再評価、廃墟の美学、荒れ狂う自然を賛美するターナーの絵画、初期のゴシック・ロマンスなどと相互に共鳴し合い次第にイギリス・ロマン主義の流れを作っていく核となる。

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                 非対称な自然の景観を生かすイギリス式風景庭園


ここで結晶とコロイドは古典派とロマン派に繋がる事が分かる。
古典主義の基礎にあるイデア論は現実の中で様々な要素が混入している泥土の中から純粋物を結晶として取り出そうとするものだ。


酒井健氏は「ゴシックとは何か」の中でルネサンスの古典主義を代表する建築家アルベルティの美学を「均整美の結晶体」と表現する。


>(アルベルティは)多様な宇宙をそのまま模倣するのではなくて、原基の比例関係だけを映す均整美の結晶体に建築物を仕立てあげようとしたのだ。

古典派が幾何学的である事はプラトンのイデア論が幾何学をモデルにした事にも現れている。また啓蒙主義の一つの極を作ったのが幾何学的に証明されたニュートン力学であった事もそれを象徴しているだろう。
(ボルケナウはデカルトの幾何学的世界観がマニファクチャー時代の科学に相当するとして微分積分を介するニュートン的世界観と区別したのだが、ここでは生物学との対比を中心とするためにデカルトとニュートンを一緒に考えている事になる。)


ロマン派と生物学も非常に深い関係にある。まずロマン派は社会を生物と見る。社会有機体説である。対する古典派は社会契約説に見られる様に社会を人工物と見る。

18~19世紀に主流となった「自然や社会を機械と見なす」風潮に対する批判、反感はロマン主義的生物学の大きな流れを作った。シュタールの「生気論」、ブルーメンバッハの「形成衝動」、オーケンの「部分が全体を包摂する」華厳哲学的階層秩序、ゲーテの「原形とメタモルフォーゼ」、サンティレールの「全動物のボディープラン」など、まだ詳しく調べれば多くの例が挙げられるだろう。


もちろん生物の神秘を一切否定する「生物機械論」も存在し、いやそれどころかそちらの方が生物学の主流だったのだが、それは最終的には生物学を物理学へ解体できると考える点で僕の理念型では古典主義、啓蒙主義の延長上にあり、かえって生物学とロマン派の深い関係を証明するものである。

古典派とロマン派の本質として「静的均衡と動的生成」とよく表現される。結晶格子は上下左右の原子間の引力、斥力の均衡で成り立ち、「動的生成」は生物学の書庫で考えてきた「自己組織化される動的秩序」と同義である。 http






⑪と⑫
ルネサンスの絵画が輪郭の線が支配する表現である事はヴェルフリンの対立概念で説明した。 http

ヴェルフリンの対立表は「ルネサンスとバロック」だが、同時に彼はその2つは周期的に繰り返すとも述べており、ルネサンスの線的表現は古典派で復活するとしている。彼の「ルネサンスとバロック」の対立項の多くはそのまま「古典派とロマン派」に直しても当てはまるものである。


ヴェルフリンは現象の記述にとどまりその神学・哲学的根拠を不問に付したが、僕は上の記事に書いた様に古典派の多くの特徴がイデア界の性格によって説明できると考える。

イデアの世界には影が無い。影が無い所では輪郭が形象を表す唯一のものだ。古典派で線的表現が優越するのはそのイデア的性格による。

もちろんラファエロやボッティチェリの絵にも影はあるが、それは立体感を出すためのものだ。

それに対しゴシック大聖堂内部の光はステンドグラスによって幻想化され、その光と闇の対比はむしろ光が自然に溶け込んでいく闇を浮き立たせるためにある。


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ゴシック大聖堂内部の暗闇

この光と闇の対比はルネサンス古典主義では綺麗に消失したが、バロックで再び復活しテネブリズムに発展した。


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          天井からの光で闇を消すルネサンス建築のドーム


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      ゴシック大聖堂の闇を復活させたバロックのテネブリズム


新古典派の芸術家はギリシャ彫刻の裏表の無い明瞭性を模範にした。ヴィンケルマンは古典古代の「高貴な単純さと静かな偉大さ」を模倣すべきだと訴え、アングルはラファエロの完璧な均衡を模範とした。

逆にゴシック、バロックの闇は新古典派を飛び越え、初期ターナーやドラクロワの絵画に継承された。


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               ロマン派に継承されたバロックの激情と闇



単純化してまとめれば
古代ギリシャ彫刻~ルネサンス絵画・建築~古典派(イデア界の光)


ゴシック大聖堂~バロックのテネブリズム~ロマン派(人間の闇)
という2系統にまとめると僕の理念型となると言える。
 

⑫と⑰

⑫  古典派    ロマン派

⑰   顕教                密教


古典派の静的均衡や規則の遵守が理性信仰とつながっているように、ロマン派が荒れ狂う自然に魅力を感じたのは、やはり狂気や残忍など人間性の影、闇の部分を再発見した事とつながっている。

カントの「美と崇高」はヴィクトル・ユゴーでは「崇高とグロテスク」に置き換えられた。昼よりも夜を美しいと感じたのはドイツロマン派である。そしてその闇の源泉を辿るとゴシック大聖堂に刻まれた怪物のレリーフに辿り着く。
 

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ゴシック大聖堂の怪物は密教美術の「忿怒の仏」にも似ている。

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               チベットのマハーカーラ

表向きはキリスト教の神に従うようになった異教の神々と説明されるが、それに反感を持つ神学者もいた。
シトー会の神学者ベルナールはゴシックの怪物像に怒りを表明している。
 
「回廊の怪物の群れ、その醜悪なる美しさ、あるいは美しき醜状は一体何事であろう。醜き猿、猛き獅子、奇怪なる半人半馬、半獣の神、有翼の虎、闘う武者、角笛吹く猟人は何事であろう。」

ベルナールの怒りはその怪物が人間の暗黒面の表現でもあった事を示している。

暗黒面を認める事は宗教的には密教となる。逆に古典ギリシャ彫刻の裏表の無い明瞭性とは密教的なものを認めないという事であり、これは仏教で言えば禅宗の直線的な性格につなげる事も可能だろう。
「法々は隠蔵せず。古今つねに顕露なり。」という禅家の言葉は言いかえれば密教の否定であり禅宗の近代性を示しているのである。



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⑮  他教排斥             万教融合

⑯  一神教                 多神教

⑰    顕教                   密教

⑱  父権的                 母権的




この辺りは ⑬の「近代的ー太古的」という二項対立の敷衍である。

近代化の過程は(少なくともその初期においては)政治的にも経済的にも中央集権化の過程であり、多くの国家で宗教においても排他的、独裁的な統一を志向する運動が起こっている。イタリアのサヴォナローラ、ジュネーヴのカルヴァン、スペインのイエズス会などである。


彼等は他宗派に対し排他的、闘争的であり、また政治経済などのあらゆる領域に宗教的支配を浸透させようとする。日本では平田派国学や水戸学、ロシアではレーニンのボルシェビキが同じ役割を果たした。今のイスラム主義も同じ性格のものと考えられる。

古典派が近代、特に近代初期の絶対王政~市民革命期、経済的には原初的蓄積期に相当するのに対しロマン派は太古的というより中世的と考えた方がスッキリするかもしれない。実際ロマン派は「ゴシック・リバイバル」など中世への憧れを含んでいた。

ヨーロッパでは万教融合(シンクレティズム)はヘレニズム時代の密儀宗教の特徴なので混乱しやすいのだが、世界的に見ればシンクレティズムは中世的、貴族的な神秘主義の特徴であり、イスラムのスーフィズム、インドのタントラ密教、日本の神仏習合もその一形態と見る事ができる。

ヘレニズムの神秘主義が中世スコラ学からドイツロマン派に継承されるのに対しカルヴァン派や今のイスラム主義が神秘主義を否定するのは神秘主義が概ね非政治的性格を持ちやすいからだ。

宗教が政治化する場合、その多くは神秘主義とシンクレティズムを否定し原理主義となる。
逆に宗教が神秘化する時には政治意識や愛国心が解体される。


密教が母権的である事を強調したのがバッハオーフェンである。密教の抱擁性は女性の最大の長所であり、ヘレニズムのオルペウス教もインドのタントラも中国の真言宗も道教も非常に女性的な性格を持っていた。