これまでルパート・シェルドレイクの「形態形成場の仮説」として書いてきた、個体発生を「枝分かれする溝を転がる球」として説明するアイデアだが、実はこのアイデア自体はシェルドレイクより古く、イギリスの生物学者、コンラート・ハル・ワディントン(1905~1975)によって1950年代に既に提出されており「ワディントン地形」として研究されている事が判った。
http   http   http   http



0246742A-3907-4D13-A0BF-CEFB218F06EC


これは第一義的には個体発生における分化の図だが、ワディントンはこれを系統発生とも関連させて考えていた。htt

>ワディントンの天才たる所以は、ここであげた地形を発生だけにとどめたのではなく進化とも結びつけて構想し、遺伝子の変化がこの地形をまねするようにかたちづくられるとした点にある。



しかしヘッケルの反復説は進化の系統樹と分化の分岐図が常に似た形になる事を意味しない。

カンブリア爆発は進化の系統樹には現れるが分化の分岐図には現れない。逆に昆虫の胚が複数の体節へ分化する事は進化の系統樹には現れない。

進化系統樹と分化の分岐図はどういう場合に同型となり、どういう場合に違ってくるのか考えてみよう。





① 二胚葉と三胚葉

下図の左は海綿の様な最も原始的な無胚葉動物からクラゲの様な二胚葉動物が分岐し、さらに中胚葉が分岐して三胚葉動物が生まれる進化を単純化して示してある。

4D547CF7-363E-426A-9BF6-A2BE13E7C11C

右は三胚葉動物の個体発生である。内胚葉と外胚葉が分岐し、さらに内胚葉が外胚葉に働きかけて中胚葉を誘導する。(或いは中胚葉が内胚葉に由来する種も多いが、その場合は図を裏返しにすれば同じ事である。)

この場合は進化系統樹と個体発生の分岐図は同型となる。
両者とも最初の分岐は原口陥入が現れる時、次の分岐は中胚葉が現れる時である。

これは外胚葉、内胚葉、中胚葉という時間的変化が成体になってからも空間的配置として残っている事、また進化的にも無胚葉動物、二胚葉動物、三胚葉動物として現在に残っている事から系統樹と個体発生の分岐図が同型となるのである。

仮に二胚葉動物が途中で絶滅したとしたら同型ではなくなる。





② ヒレと手足

次に魚類のヒレが手足に進化する例を考えてみよう。下図の左は魚類から両生類が分化していく過程、右は両生類の手足がヒレの様な形から次第に指の間に溝ができて手足になっていく過程を単純に模式化したものである。

7D01BB2F-65BF-4F93-9DDD-F6AB73325194



個体発生と系統発生は一見同型にならない様に見えるが、ここで前回の「潜在と顕在」というインド的概念が活躍する。(笑)



両生類の胚はヒレになるか手足になるかの分岐点で手足になる方を選んだ。しかしヒレになる選択も潜在的に残っていると考えるのである。(おそらくDNAも残っているだろう。)
すると点線の部分を加えれば同型となるわけである。


①と②から個体発生と系統発生の系統樹が同型となる重要な条件が浮かび上がる。


発生の時間的経過(通時的構造)は成体の空間的配置(共時的構造)へと写像される。この通時的構造から共時的構造への写像が進化と発生で一致する場合に進化系統樹と発生の分岐図は同型となる。


より具体的には
A: 進化の各段階が種として保存され発生でも保存されている場合
B: 進化の途中で絶滅した段階が個体発生でも消滅している場合
という事になる。







③ 体節構造


体節構造は動物の発生において決定的な重要性を持つ。
ここでは個体発生と系統発生の系統樹は同型になるだろうか?
それを考えるには体節形成に2パターンがある事を知る必要がある。
 


体節は「積み重ね型」から「はめ込み型」へ


「生命の弁証法」で書いた事の繰り返しになるが、三木成夫氏の生命記憶の概念は脳の記憶と形態形成を同じモデルで考えるシェルドレイクの発想に近い。 http

三木氏は「体節にはサンゴや海綿が群体を作った生命記憶が刻まれている」と言う。

9447C431-7FFB-4E57-99F6-4B485E8466FE



上図の様に原始的動物では植物と同様、無性的に出芽した個体が横に連結して群体を作る。体制の分化と共にこの連続は次第に強固となりもはや切り離せなくなる。高等動物ではその群体がまとまった一つの個体として、体節間に高度の分業が成立している。


三木氏はこの体節の変化を植物の「積み重ね」体制から動物の「はめ込み」体制への変化とダブらせている。(こういう所が三木氏の凄い所だ。)


この三木氏の直観は最近それを裏付ける実証研究が出てきている。
節足動物の体節形成で、ムカデなど原始的な種では体節が端から順番に1つずつ生じ、昆虫では体節が全体の構造として同時に生じる事が分かっている。
ムカデの体節形成は植物的・積み重ね的で昆虫は動物的・はめ込み的なのだ。

5BCDE9E0-83D7-40B7-A384-C5EFC7759112



さらに数理的な研究からは分裂にフィードバック原理だけが働く場合はムカデ型になり、フィードフォワード原理が大きく働くと昆虫型になるという興味深い研究結果になっている。 http


昆虫・・・・同時形成(はめ込み型)・・・フィードフォワード
ムカデ・・・一つずつ形成(積み重ね型)・・・フィードバック

このムカデ型と昆虫型の体節の発生を模式的に示すと下の様になる。


990DF26F-B5DE-439C-8941-273351605BFA



これは個体発生の分岐である。昆虫型ではこれが進化の系統樹には現れない。そもそも体節が時間的段階を踏まないからだ。


ムカデ型はどうか? これは進化系統樹と同型になる可能性が残されている。
つまり体節が2つしかない動物、3つの体節がある動物と次第に体節が多くなって進化してきたならば一致する。
生物史の常識からその可能性は低いかもしれないが、昆虫型の様に原理的に一致が不可能というケースとは違う。












植物の細胞増殖が積み重ね型、動物の細胞増殖がはめ込み型であるのは多くの生物学者が指摘している定説である。再び三木成夫氏の言葉を借りよう。


>植物の増殖はあたかも煉瓦を積み重ねるように、常に先端の細胞が分裂して、古いものの上に新しいものが付加されるように行われる。
>こうした不断の積み重ねに耐えてゆくため、その構造は上述の煉瓦にたとえられるようにはなはだ堅固にできているが、それは全ての植物細胞を取り囲む丈夫な壁(細胞壁)の存在によって証明される。


>動物の成長とは、このように界面を構成する細胞群が、ただひたすらおのれの内部に向かい、増殖分化する事によって取り行われる。それは植物の成長がもっぱら外部へ向かう事と、またまたひとつの対照を示すことになる。植物が「積み重ね」の形を取り、動物が「はめ込み」の形を取ると言われるゆえんであろう。
(生命形態学序説 p.46~47)


FE4DAFE4-A023-4931-A98E-7FFF983103D0

 動物の「はめ込み」と植物の「積み重ね」


しかしこれは大まかに見た一般論であって、動物でも傷の修復やガン細胞の増殖などは外へ向かうし、胚発生でも上に見たようにムカデの体節形成は積み重ね的である。この事実は後に重要になるかもしれないので覚えておきたい。








さてここからが僕の推論である。


① 植物の「積み重ね型」は機械的・原子的、動物の「はめ込み型」はモナド的である。


この最初の前提だが、論理的に説明せずイメージで原子的、モナド的と断定し過ぎた事に気づいた。積み重ねが原子的なのは分かりやすいが、はめ込み体制がモナド的と考えるのは少し段階を踏む必要がある。


積み重ね型では部分と全体の関係が足し算に近い。
これは植物が切って接ぎ木したりできる事に象徴されている。
 
これに対しはめ込み型は部分の関係が掛け算になっている。これは差し当たり「有機的」と表現できる。
消化管や呼吸器にも血管や神経が張り巡らされている。血管は神経の支配を受け、神経も血管からの酸素供給が無ければ生きられないため、神経と血管の間に密接なワイヤリングが存在する。https


対する植物では全体を貫通する師管、導管も通路でしかない。


何よりもはめ込み型のモナド的性格はその原口陥入に現れている。
原口陥入とは時空の反転である。それにより動物細胞は積み重ね体制を取れなくなり胚(個体)全体がモナドと化すのである。動物の胚は内向きで「窓のないモナド」というライプニッツの説明そのままである。

動物は植物の様に外へ向けて大自然と交流する事をやめ、内に蔵する植物器官を通して自然と交感するのであり、外の環境にはトゲを出して敵意を示し対立するのである。


これで「はめ込み型」がモナド的である事は説明できたと思う。









② この植物の機械的増殖は植物の方が自然と一体化している事を考えると逆説的に見えるが、実は逆説ではなく植物の積み重ねの機械性は一個の植物細胞がモナド的である事の裏返しである。

植物は成長しても細胞が高度な多能性を有しているから機械的な積み重ね体制を取ってもモナド原理を発現できる(つまりいつでも葉や茎や根に変化できる)のであり、動物の細胞は次第に多能性を失って行く故に初めから所定の位置にはめ込まれなければならないのである。


有機的なはめ込み体制は一個の細胞がモナド性(=多能性)を失って行く事の裏返しである。


植物・・・1細胞はモナド的多能性・・・細胞連結は機械的・原子的
動物・・・1細胞は多能性を失う・・・細胞連結は有機的・モナド的






③ 動物の体節構造は植物的な積み重ね体制の復活であり、また植物の積み重ね原理を遡るとシアノバクテリアの糸状構造に行き着く。


CBB91478-F081-49D6-9D2F-B0B84A314670



三木氏は「体節は海綿やサンゴの群体の生命記憶」と語るが、一方でそれを積み重ね体制と重ねて見ている。それならばシアノバクテリアまで遡っても良い筈だと僕は主張したい。


シアノバクテリアの糸状構造が高等植物や動物の体節構造と連続している事はここに書いた通りである。http://bashar8698.livedoor.blog/archives/18039311.html





④ 植物の積み重ね体制は植物の個のレベルが曖昧な事の表現である。


植物でヘッケルの反復説が常に当てはまらないのは個のレベルが曖昧な事と関係していると考えられる。http


また植物では動物の胚のような内外反転が起こらない代わりに系統発生において単相と複相の包含関係が反転する。http

この2つの事実を熟考する事で「積み重ね体制」が個のレベルの問題と深く関わっている事が予想されるのではないだろうか?


シアノバクテリアの糸状構造は体節の原型と同時に積み重ね体制の原型でもある。ここに何か重大な事が隠されているとインスピレーションが教えてくれる。注意深く観察してみよう。


シアノバクテリアには単細胞で生活する種、2細胞で生活する種、糸状構造を作る種が存在する。もちろんこの順番に進化してきたに違いない。この糸状構造は単細胞の物が集合するのではなく、分裂した細胞が分かれずにくっついたままでいる事から生じる。


この単細胞~2細胞~糸状の経過は進化だろうか? 分化だろうか?
考えてみればすぐに分かる。どちらもなのだ。


何度も書いた様に、ゲーテは植物の体節形成を緩慢な生殖と見た。
ゲーテの言葉はいつも深い意味を隠している。シアノバクテリアまで遡った時にその本当の意味が分かる。

シアノバクテリアの糸状構造では進化系統樹と分化の分岐図が「同型」どころではなく全く一つなのだ。積み重ね体制という川の水源を求めて遡ると進化と分化がまだ分岐していない世界に辿り着くのである。

ではその後、何故進化と分化、個体発生と系統発生は別の物になって行ったのだろうか?  
個体が死ぬことになったからである。



死は生殖と裏表である。
生殖細胞もひとつながりの生命と考えたのが三木氏のこの図である。




これを少し変形して螺旋にするとこうなる。

E2B18E21-CAE5-440D-B58E-DBB311368C1E

多細胞生物は全て栄養体と生殖体の循環する生命を持っており、これを「子孫を残して個体は死ぬ」と考えるのではなくひとつながりの螺旋状の生命と考えた時、進化はその成体の部分だけを繋げてみた図である事が分かる。

進化系統樹はこの螺旋状の生命の「ポアンカレ切断」になっている。


「ポアンカレ切断」についてはここを参照





⑤ 一方で動物のはめ込み体制は自然を切り取って内部へ包み込む事である。


皮膚呼吸から内臓呼吸へ、外骨格から内骨格へなど外側に有った物を内側へ取り込む事が動物性の本質をなしている。そして外側へは針状の突起を出して構える。


その行動をまとめて言えば「自然からの独立・隔離」「自然との敵対」と言える。


それを端的に表現しているのが原口陥入と神経管の形成だが、その原型はボルボックスの内外反転にあると思われる。






そう考えると「体節は群体の生命記憶」という三木氏のアイデア、また「体節は積み重ね体制の復活」という僕のアイデアは新たな意味を持つ。


一度、原口陥入と神経管の形成で内向きになり「窓のないモナド」となった動物個体が再び植物的な外向きの自然との関わり方を思い出したのだ。


しかし動物の体節は植物の体節と同じではない。
動物では細胞~組織~器官~体節~個体という個が集合して全体を作るピラミッドに原子的原理とモナド的原理が総合されている。


それは整理すれば下の3段階の弁証法として記述できるだろう。
(このアイデアはまだ未完成だ。)


① シアノバクテリアの機械的結合を原型とする積み重ね体制
② 動物胚の原口陥入と神経管形成による時空反転
③ 植物的積み重ね体制の復活としての動物の体節









ヘッケル的反復と「全体と個の重層性」は密接な関係があり、それが体節構造に表現されていると直感してきたが、具体的には分からなかった。それが今回の考察でようやくその神秘の半分が明らかになった気がしている。


個のアイデンティティの確立は原子的原理の現れであり、それが「個と全体の重層性」というモナド原理と衝突し、「個は確定するがその中に種の歴史が現れる」ヘッケル的反復(時間的反復)と「体節構造」という空間的反復がその妥協点となる。


しかしシアノバクテリアを見ればヘッケル的反復と体節的反復は元来同じものから分岐してきたものである事が分かる。