カール・シュミットはライプニッツを典型的な「バロック哲学」と見なしている。

確かにルネサンス的な神秘主義と近代的な力動的世界観が混在している点ではバロック的と言えるかも知れない。

「モナド間の予定調和」はアダム・スミスの「神の見えざる手」と見事に呼応し、近代の自立した個人を表現している、との指摘もある。

 

しかしモナド論に限って見た時、僕はルネサンスの神秘主義の特徴が色濃く刻印されていると考える。

モナド論が神秘主義の理念型をなしていると前回書いたが、それを質的哲学、性善説、精神の無機物までの拡大、因中有果論、貴族的主知主義、脱中心性、等の観点から概観してみる。


(1)質的哲学

モナドは必ず何か性質を持っている。その質は他の全てのモナドと異なっていて、また不断に変化している。その質は「単一なものの中に含まれている(無限な)多の事に他ならない。」

「個の質を問題にする」というモナド論の特徴は原子論と比較するとその意味がはっきりする。
ここで僕の尊敬するフランツ・ボルケナウ先生に登場してもらう事にしよう。

「17世紀の自然科学は数学的に表された力学であって、これ以外の何者でもない。これに反してルネサンスがおこなっていたような、そしてまたベーコンの問題設定の核心でもあったような観察、すなわち自然の内に現れる質やそれらに対応する作用の仕方についてのさまざまな観察は、まったく背景にしりぞいている。」

「自然の全事象を力学的な過程から説明しようとする努力は、あらゆる自然事象を、あるマニュファクチャーにおける経過からの類比で把握しようとする努力であると規定される。」

ボルケナウは13世紀のトマス・アクィナスの目的論的世界観が「封建的・身分的秩序」と、17世紀のデカルト、ガッサンディ、ホッブス等の機械論的世界観が「初期資本主義のマニュファクチャーの社会構造」と、それぞれ内的連関を有していると考え、ルネサンスはその中間段階と捉えた。


原子論はデカルトの解析幾何学と共に機械論的世界観を象徴するものであり、「質的なものを量的なものに還元する思考」である。
できるだけ数少ないものの量や組み合わせによって無限に多様な質を説明する事がその核心である。

それは資本主義において熟練労働が解体され、量的に比較され得る「一般的労働」(=商品価値)に均質化されていく事と相似象をなしている。

モナド論は原子論への対抗を主眼にしている。個における質の豊饒性への注目はルネサンス神秘主義の大きな特徴であり、その意味ではモナド論はデカルトよりもルネサンス期に退行している。

「その他にルネサンスが近代の我々の自然認識に寄与したところは、純粋に博物誌的なもので、途方も無くおびただしい、種々の点で価値の高い、経験的な素材の蒐集である。」

しかしボルケナウに応援してもらうのはここまでである。彼はルネサンスの「個の質の豊饒性への注目」の背後に「中世自然法の演繹的思考の衰退」を読み取った。
それは正しいのだろう。問題はその意義の受け取り方である。

ボルケナウはルネサンス的神秘主義を中世的・身分的秩序が崩壊しかかった時に観念の中でそれを再興しようとする試みと考えた。
マルクス主義者の彼は神秘主義の創造的意義を理解できない。


トマス・アクィナスの中世的自然法は教会の階層的秩序によって社会的に担保されていた。教会の権威が衰退していった14世紀、スコラ学は「唯名論」と「ドイツ神秘主義」に分解する。

教会的普遍から切り離された個と超自然的な神との関係があらためて問題となり、神秘主義は教会という媒介を経ずに直接「個」と「神」を結びつけようとする。

ドイツ神秘主義では真理の基準が信仰の深さに求められ、思考は魂の奥底へと向かった。この過程で神の権威は個々の人間の魂の中に内在化され、近代的な「人格の尊厳」という観念を準備したのである。

神秘主義は(ボルケナウの考えとは逆に)近代的精神の本質的な一面としても存在しているのである。



(2)性善説と汎心論

遠隔力を知らない時代の原子論は、あらゆる運動を他の物の衝突から生ずると考える「衝突運動論」となる。これは唯物論やそれに近い思考(エピクロス派など)によって受け容れられてきた。

衝突運動論は運動や変化を起こす力は必ず他の物体の衝突によって与えられる事、言い換えれば自然的個物の中には自ら運動する原理が存在しない事を意味している。

これは宗教改革における「自由意志の否定」のペシミズムと相似象をなし、さらに政治においてはルターの「政治的抵抗の否定」の論理と結びついた。

ボルケナウの分析では、これはスコラ学が成立する以前の教父哲学(特にアウグスティヌス主義)の性悪説が14世紀以後に復活し、プロテスタンティズムでその極点に達したものである。

「古代的萌芽は途絶えてしまった。それを中断したのは明らかに古代末期の最も強大な神学的潮流、すなわちアウグスティヌス主義であった。」

「熱情的な徹底性をもって遂行された、地上と天上、肉体と精神、肉欲と恩寵との分離と対立は、ストア的法則概念を不可能にした。」

「神的なものと自然的なものの間に、一致のかわりにもっとも過酷な対立が生ずる場合、自然法(自然法則)の概念は萎縮せざるを得ない。」

誤解を恐れずに単純化した図式で示せば、ストア哲学の自然法~新プラトン主義の流出論~スコラの実念論~ルネサンスの神秘主義~モナド論という性善説的な流れと、アウグスティヌス~唯名論~宗教改革~機械論的哲学という性悪説的な流れが指摘される。

性悪説と超越神論、性善説と汎神論の関係は前にも指摘した通りだが、http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/37732509.html
モナド論は後者を代表するものである。

ライプニッツはモナド間の因果関係を否定し、モナドの質的変化の原因は全て自らの内にあると言う。それを端的に示す言葉が「モナドの欲求」である。そしてモナドの本質は「力」である。

それは運動、変化の原理が個物の内には無く、外からの衝撃で与えられる原子論と対極の思考であると言える。

性善説と汎神論の関係はモナド論においても「予定調和」という発想に現れている。



(3)精神の無機物までの拡大

汎神論と神秘主義は同じものではないが、かなり重なっていて、互いに親近性を持つ思考体系である。
汎神論は人間に限らず、動物、植物、さらに無機物にまで神が内在する、とする思考である。

神秘主義は理性では捉え切れない神に何らかの神秘的飛躍によって到達しようとする。
この飛躍は一部の修行を積んだ者にしか達成できない。神秘主義の持つ「貴族性」「知的エリート主義」が生まれる所以である。しかしこれについては次回に回す事にする。

神秘主義は共通して「大宇宙と小宇宙の照応、一致」を見る。
前回この大宇宙と小宇宙の一致がデカルト的コギトを前提にしている、と書いた。これに疑問を持つ人も多いだろう。

ウパニシャッドはどうなのか? サーンキャやヴェーダーンタは?
古代インドの思考に方法的懐疑が有ったのか?

結論から言えば有ったのである。サーンキャの「我知る、という意識化の作用に霊魂実在の証拠がある」(!)という主張がデカルト的コギトの発見以外の何だろうか?

そして汎神論と神秘主義が重なる時、当然、「動物、植物、無機物のコギト」という問題にぶつからざるを得ない。そしてここから現代で言う「深層心理」の存在を考えざるを得なくなる。

ライプニッツは「ただ表象しか持たないモナド」、「知覚、記憶を伴う動物のモナド」(乃ち霊魂)、人間のモナド、神のモナドがヒエラルヒーを成している、と考えた。

これはシュタイナーにも継承されている。人間の肉体、エーテル体、アストラル体に対応して世界も物質界、エーテル界、アストラル界が重なっている、という考え方である。

モナド論のもう一つの大きな意義は汎神論と神秘主義が重なる時、「外界の霊的階層構造と心理の階層構造の一致」という結論にならざるを得ない事を明らかにした点にあると思う。