(4)因中有果論

因中有果論はそもそもインドの六派哲学の中で大きいテーマとして議論されてきたもので、結果として生ずるものはそもそも初めから原因の中に含まれていたものだ、とする説である。
これは「無から有は生まれない」事が根拠になっている。

神秘主義的なサーンキャとヴェーダーンタは因中有果論を採り、比較的近代的な発想をするニヤーヤとヴァイシェーシカは因中無果論を採った。そしてこの後者の2派は原子論と結びついた。

後者の無果論は原因にあるものと結果として生まれるものは全く別物であるというのだから、そこから「因果の必然性」の観念は生まれにくい。

原因と結果の結びつきは全く恣意的、偶然的なものであり、世界には何の意味も無い、というニヒリズムに陥り易いと言える。
16~17世紀の原子論はそういう傾向を持っている。

これに対し前者の有果論は結果は原因となるものが形を変えたものという事になる。「変化」がこの説のキーワードである。

サーンキャの「展開」(パリナーマ)やアリストテレスの「可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)」という自然理解は因中有果論の上に立っている。

モナド論でもその変化を論じている。その変化は外部から来るのではなく、機械的に説明できるものでもなく、内的な原理から来る。その働きをライプニッツは「欲求」と名付けた。

この考え方は現代でも生物や精神的過程を考える時に有効であり、彼は「物理学における目的因の有効性」を本気で考えていた。


(5)貴族的主知主義

前回述べた様に、神秘主義は特殊な厳しい修行者にのみ可能な道と考えられ、従って貴族的、知的エリートの性格を帯びている。

一方「主知主義」は「主意主義」と対立するものでスコラ学を考える上で重要な概念だが、これも貴族的な思考であると言える。なぜなら知識は近世までは貴族と精神的貴族たる祭司階級に独占されていたからだ。

簡単に説明すれば、主知主義は「善はそれが善であるから神が欲したのである」とする説で、神の意志より観念としての善が論理的に先立つ。

トマス・アクィナスに代表され、人間の自然理性を信頼し、理性によって神に接近できると考える。(自然神学)
後世では啓蒙主義やヘーゲルがこれを代表する。

逆に主意主義では「善は神が欲したから善なのである」とする説で善悪の基準は人智の遙かに及ばないものであると考える。
13世紀以後では唯名論とプロテスタンティズムが主意主義の立場を採ってきた。

ライプニッツが「必然的真理はもっぱら神の悟性の中に宿り、その対象になっている(から神の意志には左右されない訳である)」と言う時、それは主知主義の表明であり、啓蒙主義的な自然理性への信頼、人間性への楽観的な観察が見られる。

神秘主義は「知識では神に到達できない」というのだから本来は主知主義とは矛盾する。

しかしインドのサーンキャやヴェーダーンタ、中国の老荘哲学、ヨーロッパの親プラトン主義やルネサンスの様に主知主義的な神秘主義が存在してきた。

それは「一般には隠された知識でも特殊な訓練を受けた人間には到達出来る」という考え方になる。
「グノーシス」という言葉がそれを象徴する。

主知主義と神秘主義は論理的には矛盾する様だが、「知的エリート主義」「貴族的精神」という心理的な面で共鳴し合うのである。


(6)脱中心

これは「大宇宙と小宇宙の一致」から直接導かれる結論である。
ルネサンスの神秘主義を先取りしているニコラウス・クザーヌスの言葉がそれを最も明瞭に表している。

「万物が万物の内に存在し、何でもが何でもの内に存在するという事は明らかである。」
「どんな被造物(もちろんそれには無機物も含まれる)の内においても、宇宙はその被造物それ自体なのである。」

彼はここから宇宙には定まった中心は無く、いたるところが中心であると考え、天動説を否定した。
彼の説は汎神論的であると見なされ、異端審問にかけられた。

ルネサンスの哲学者ジョルダノ・ブルーノはニコラウス・クザーヌスの信奉者だった。彼は一つ一つの「モナーデ」の中に全宇宙が反映され、従って宇宙には中心が無く、天動説は誤りである、と主張し、やはり異端の嫌疑をかけられて火刑に処せられた。

ライプニッツのモナド論とブルーノのモナーデ論は未だ詳細に比較検討された事が無いが、ライプニッツの次の様な言葉にはやはりクザーヌスの影響が認められる。

「どの生物の体にも、おのおのそれを支配するエンテレケイア(=モナド)が有り、動物の場合それは魂である事が分かる。しかし同時に、その体のどの部分にも、他の生物、植物、動物が充ち満ちていて、そのおのおのが、またそれを支配するエンテレケイア、ないしは魂を持っている事が分かる。」

一人の人間に一つのモナドがあるのではない。無数のモナドがあるのだ。これは彼が紛れもない汎神論者である事の表明であるが、それと「コギトの唯一性」は矛盾しないのだろうか?

実は矛盾しないのである。一人の人間に無数のモナドがあるのは
「外側から見たモナドの様態」であり、「コギトの唯一性」は「内側から見たモナドの様態」であるからだ。

無数のモナドを内側から見れば、その一つ一つが「唯一のコギト」なのである。



モナド論はその後アーサー・ケストラーの「ホロン」という概念やインテグラル理論に大きな影響を与えた他、「物理学に目的論を適用する可能性」、「絶対空間が先立つのではなく、素粒子が空間を作る」という発想、「素粒子は精神的なものである」という発想など現代のニューサイエンスに多くのヒントを与え続けている。


以上、一つ一つの問題が論理的に詰めて行くと非常に難しい問題で僕の手に負えないのだが、モナド論が神秘主義の多くの特徴を具え、「汎神論的神秘主義」の理念型として整合性がとれている事は分かってもらえたのではないだろうか?