或る日本のプラトン研究者はイデアの概念を現代人に最も分かりやすく説明すると、それは「曲線の方程式」のイメージに一番近いと説明していた。

方程式の解は日本でもアメリカでも中国でも同じだ。また古代でも現代でも変わらない。つまり数学的論理は時空を超越している。


ところが解析幾何学によって方程式の解は点の集合または点の運動として示される。デカルトの座標空間は時空を超えたアイオーン達をこの世の時間と空間の中に呼び出す召喚魔術である。


神秘主義に興味の無い人にとってデカルトはただの退屈な近代主義者と映っているかもしれない。
しかし神秘に対する鋭敏な感覚を持つ者にとってデカルトの解析幾何学はパスカルの「射影幾何学」、ライプニッツの「位置解析」と共にピュタゴラス以来ルネサンスまで途切れる事なく継承されてきた「幾何学的神秘主義」の霊感に溢れるものである。多くの人は座標空間のアイデアが如何に霊的な深みを隠しているか気づいていない。

 

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現代人は上の式を見ればすぐに原点を通る放物線の式と考える。
しかしその様に考えられる様になったのはデカルトのおかげである。
ではデカルト以前はどうだったか?

yは線分の長さである。xの2乗は正方形の面積である。
従って上の式は「長さと面積が等しい」という不合理な主張をしているのだ。
これがデカルト以前の考え方であった。


代数学と幾何学を合体させようとする試みは古代ギリシャのアポロニウスからあったのだが、一部の特殊な場合しか合体できなかった。
それは代数学の記号が非常に複雑だった事も理由の一つだが、それ以上に数字で表される量の次元を問題にし、左辺と右辺でそれが一致しなければならないと考えられたからである。
(量の同次性)

デカルトは下の様なやり方で x2 も x3 も xy も全て線分の長さとして表せる事を示した。


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まず初めに与えられた線分の長さxを横軸にとる。次にコンパスで同じ長さを縦軸上にとる。
次に(ここが重要なのだが)単位としての1の長さだけは分かっているものとする。
1と縦軸の x を結ぶ線を引き、それと平行で横軸の を通る線を引き、それが縦軸と交わった点を y とする。
2本の斜線は平行だから、y:x=x:1 従って y=x2 
つまりは の2乗の長さである。


上の証明から分かる様にデカルトは量の次元を無視した訳ではない。かえって彼は量の次元に非常にこだわった人であった。それは次の様な言葉から分かる。

「ある物体を一定の位置に維持する力は1次元的で、位置を変える力は2次元的である。(重さと距離の積こそまさに仕事量である)そうすれば速度は3次元の量であろう。従って直感性を守るために除外されねばならない。」
(友人メルセンヌへの手紙)

デカルトの解析幾何学は次元を無視するのではなく、全ての次元を1次元(線分の長さ)に変換するものだった。そのためには単位としての1の長さが分かっていなければならないのである。





彼は何のために解析幾何学を作ったのだろうか?
それは単に幾何学と代数学を合体しようとしたのではない。彼の学の構想ははるかに遠大である。

解析幾何学は「方法的懐疑によるコギトの発見」と対をなしている。
主観の極たるコギトと客観の極たる座標空間、この二つが同様に「明晰、判明」な規則に従う事で両極は一致し、数学と道徳は一致する。

数学的道徳! この新プラトン主義的な理想こそデカルトの目標であった。そしてこの理想はスピノザからライプニッツまで継承されるのである。


彼は多次元の量が彼の座標空間で表現できないという理由で回避し、自分の座標空間で表現できる量だけで物理学を構築しようとして失敗した。

この「多次元の量にたいする恐れ」はその後のデカルトの一生を支配したのである。彼が幾何学世界観から物理学的世界観への移行に失敗した理由もこれであった。

彼は自由落下運動で落下距離が時間の2乗に比例するのを知りながら
「時間を2乗する」という観念を承認できず、理論化しようとしなかった。

デカルトの弟子達はエネルギーの恒常に関するライプニッツの定式の「速度の2乗」という観念に驚きそれを拒否した。そもそも「速度」が距離÷時間、即ち2次元の量であり、従って「速度の2乗」とは4次元の量になる。それは座標空間によって直感する事が不可能な量であり、デカルトの全哲学大系を壊しかねないものだからである。





オイラーによって確立された現代の関数論はデカルトと違って単位としての1の座標も前提としないし、次元の同次性も問題にしない。そのかわりにピュタゴラス以来受け継がれてきた神秘の感覚も捨ててしまったのである。

微分積分の形而上学的意味が未だにドゥルーズなどによって問題とされるのは、オイラーやニュートンが捨ててしまった何かが実は大変重要なものであった事に気付いたからではないだろうか?