ノヴァーリスが1799年に発表した「キリスト教世界またはヨーロッパ」はローマ・カトリックの普遍的支配を理念化し、讃美した評論である。






「ヨーロッパが一個のキリスト教国であり、この人間的に形作られた大陸に
単一のキリスト教徒が住んでいた時代は、美しく輝かしい時代であった。」

 「一人の首長が、世俗的な大所領を持たぬままに、大きな政治的諸勢力を指導し統率していた。」



 

「世俗的な大所領を持たぬ」という記述からこれが中世以前の原始キリスト教共同体とも受け取れる。



 しかし「天国をこの世の唯一の国とするために仲間を世界のあらゆる大陸に派遣した。」という記述はイエズス会を指している。



これは歴史上は存在しない「理想化されたカトリック的普遍」を詩的に語っているのだ。








彼の理想はどんな世界だろうか? その特徴を検討してみよう。



 「誰でも入会を許される無数の統一的組合(ツンフト)が、その首長の下に直接に置かれ、その指令を実行し、熱心にその慈悲の権力を確立しようと努めていた。」



その組合は一部の知的エリートに独占されるのではなく「誰でも入会を許される」大衆に開かれたものであり、その権力は力ではなく慈悲によるものだ。






「聖なるこれらの人々によって確実安全な未来が準備され、あらゆる失敗は彼等によって消去され除去された」



 「彼等は神的な諸力を備え・・・中略・・・
キリスト教徒の母マリアへの愛の他には説くことをしなかった。」



 その信仰の対象は厳しい律法による父なる神ではなく、あらゆる失敗を許すマリアのような包容力のあるものである。







ノヴァーリスは中世カトリックをそのまま讃美するわけではない。

彼等の堕落をよく知っている。



 「ある新しい世界霊感が生ずるまでは、キリスト教の残骸が世を支配し、
その空文がたえずつのる衰弱と嘲弄とともにのさばっていた。」



 「自己の本来の職責を忘れ、彼ら僧侶の心には低級な欲望が増長し 」



 「本来の姿でのローマの支配は、 暴力的な謀反(ルターの宗教改革の事)
より久しい以前に、暗黙のうちに終わっていた。」





彼はルターの宗教改革の初期には一定の意義を認めるが、それがキリスト教を分裂させた事を非難する。



 「彼等はまた正当な教義を立て、 多数の賞賛すべき事物を導入し、 

  多数の有害な法令を廃止した。



  しかし彼等は自分達の処置がもたらす必然的な結果を忘れていた。



  分離すべからざるものを分離し、 分割しがたい教会を分割し、

  普遍的キリスト教的な組織から無理やりに脱退するという罪を犯した。 」





彼はルター派の聖書中心主義も批判する。



 「この選択は信仰心にとってはきわめて有害であった。

    文字以上に信仰の敏感さを滅ぼすものはないのだから。」



エヴァンゲリスム(福音主義)という名の宗教原理主義が神秘主義と対立するものである事にルターは気づかなかったがノヴァーリスは気づいている。





彼はカトリックの最後の武器、イエズス会を讃美する。



「瀕死の教権制度の精神がその最後の贈り物を惜しみなく与えたかに見える
一つの僧団が新しく生まれて抬頭してきた。



   それは古い信仰を新しい力で武装させ、すばらしい洞察と執拗さをもって、
かつてないほど賢明に、教皇の国の存続とその力強い更新の役を引き受けたのだ。」



 「この団体は、いわゆる秘密結社の母として、今はなお未熟だが確かに重大
な歴史的萌芽である諸団体(フリーメイソンリーや薔薇十字団を指していると思われる)の母としてさらに注目すべき物となる。」



 「カトリック諸国家や特に教皇の椅子は、宗教改革に耐えて長く生き抜くと
いう恩恵を彼等にのみ負っている。」







彼が最も敵視するのは啓蒙主義とそれに基づく市民革命である。



「人は一般的停滞の原因を信仰に求め、徹底的な知識によって停滞を

 一掃しようと望んだ。」



 「カトリック信仰に対する当初の個人的憎悪は漸次に聖書に対する憎悪、
キリスト教に対する憎悪となり、ついには宗教そのものへの憎悪に移っていった。」





啓蒙主義は学問から神を追放する事で学問を変質させる。



 「彼等は、自然、大地、人間の霊 、諸科学からポエジーを除こうとして
休む暇もなく働いていた。」



 「光はその数学的な従順さと自由さのために彼等の寵児となった。



 「彼等は光というものが色彩と戯れるよりはむしろちりぢりに割れ砕けて
しまうことを喜び(ニュートンの光学理論を指している)光にちなんで彼等の大きな仕事を啓明(イルミナティ)と名付けた。 」







ノヴァーリスはフランス革命が第二の宗教改革であり、啓蒙主義がプロテスタント的なものである事を見抜いている。



「第二の宗教改革、より包括的な 、より独特な宗教改革は不可避であり、
しかもそれは、最も近代化されながらも自由の欠如のために無力な状態に落ちていた国(フランスの事)を真っ先に襲わざるを得なかった。」



 「革命は、宗教改革がルターのそれであったように、フランスの革命である
他は無いのか?   再び不自然にも革命政府として固定されるのはプロテスタンティズムだというのか?」







しかし彼は同時にこの啓蒙主義と革命の最中に新たな汎神論的な思潮が沸き起こって来た事に注目している。



 「しかし学者たちや諸国の政府の間に、信仰の敵やそのあらゆる団体の間に、不和が生まれる(ジャコバン党とジロンド党の党派闘争を指していると思
われる)その瞬間、宗教はまたもや指導的な、仲介的な第三の仲間として登場せねばならなかった」



 「真の無政府状態こそ宗教の創造要素なのだ。」






彼は啓蒙主義の無神論の中に生まれた汎神論が新たに分裂した科学を総合し、再び神学と科学を総合し、世界を統合すると信じた。





三段階の歴史観は12世紀ころからシトー会の修道院の中で蓄積されてきたものだ。

それはサン・ヴィクトルのフーゴーからフライジングのオットーを経てフィオーレのヨアキムで完成され、13世紀にはフランチェスコ会厳格派(ピサの小さき兄弟達) へと継承され「オリヴィ神学」として結実した。



17~18世紀の薔薇十字運動はヨアキムとオリヴィの神学に大きな影響を受けている。



彼等はローマ帝国の内部に教会が成立し、次第に帝国を内側から変質させていった様に、既成のキリスト教会の内部にできた修道院が次第に成長し、最後には教会が滅びて修道院の時代(=聖霊の時代 )が来るという。



シトー会やフランチェスコ会も薔薇十字団も、自分達こそがそれであると信じた。



ノヴァーリスにとってはその新たな霊的運動はフリーメイソンリーや薔薇十字団であり、イエズス会であり、ゲーテやドイツ・ロマン派の諸科学総合の動きだった。



ノヴァーリスの歴史認識はヨアキムやオリヴィ神学の延長と捉えればそれほど奇異なものではない 。

当時の人々、また現代人から見て奇異に思えるのは、現代の歴史認識が未だに啓蒙主義に基づいているからである。





しかしこの評論は、「大所領を持たないカトリック教会」という設定、イエズス会の霊的側面にのみ注目し、陰謀的な面や総合商社としての面に目をつぶるなどいかにも非歴史的である。





先の「夜への讃歌」で



(1)ギリシャの神々の生きる時代

(2)ローマ帝国による圧制の時代

(3)イエス・キリストによる生命の回復



という三段階の歴史観を示したノヴァーリスであったが、ここでは




(1)中世のカトリック共同体

(2)宗教改革、啓蒙主義、市民革命による分裂

(3)薔薇十字など新たな霊的運動による再生



に置き換えられている。



ノヴァーリスの三段階論は現実の歴史から異次元へ飛翔する事でまるで孫悟空の如意棒のように伸縮自在の物に転じているのだ。

それはいずれ「発展の神学」としての弁証法へとつながるであろう。








ノヴァーリスのこの評論を当時の人々は「非歴史的」という理由で批判した。



しかしヴェーバーの「理念型」という新カント派的な方法論を知る現代人はノヴァーリスの方法をそう簡単には批判できないだろう。



「歴史意識」という言葉を多くの人が誤解している。それはただ過去の事実を羅列して眺める事によっては生じないものだ。




事実は無限に有り、そこから一定のものを選び出す時点で既に価値観が介入している。事実の時系列をX軸とし、それに超歴史的な理念がY軸として交わった時に初めて「歴史意識」が生まれるのだ。





問題は彼の非歴史的なカトリック観が単なるユートピアではなく理念型として整合性を持つかどうかである。



それは「カトリックの世俗領主化が必然的なものだったのか?」という神学的テーマとしてヘーゲルに継承された。



ルター神学とプロイセン国家の融合の理念に辿り着いたヘーゲルと、カトリック的普遍性の復活を望んだノヴァーリスの両極の理念はマキャベリとダンテの理念的対立から始まり 、現代でも国民国家とそれを超えるEUや国連の理念の対立として存続している。





 「これまで眠っていたヨーロッパの新しい活動が始まり、ヨーロッパが再び
目覚めようとするならば 、そして諸国家からなる国家が、 一個の政治哲学 が目前に迫っているのだとしたら!」



 「世俗的勢力が自分自身の均衡を保つ事は不可能であり、同時に世俗的かつ
超地上的である第三の要素だけが、この課題を解くことができる。」



ノヴァーリスの予言は示唆的である。

(1)国連が機能するためには宗教の和解が必要である事、

(2)世俗的な「力の均衡」ではなく一個の宗教的理念によってしか統合されないだろう事、

(3)その変化は国連に対立するのではなく、国連の中に入り込み国連を内部から変質させる形で成長するだろう事、




こんな事を考えさせてくれる。