「夜明け前」は僕の自然主義文学論の第一の正念場であると自覚している。

前半の主人公、吉左衛門は藤村の祖父がモデルである。

木曽の山村にある馬籠(まごめ) の本陣(身分の高い人専用の宿) の当主だった彼は村の世話役でもあった。村人の結婚などの祝時には吉左衛門がいつも大きな役割を果たす。
また参勤交代の大名や幕府の奉行などが木曽路を通る時などは大騒ぎになるが、その時に無礼が無い様に目を光らすのも彼の役目だ。

木曽の山で伐採してはいけない区域や木が決められていた。
檜、さわら、等の五木である。禁を犯して伐採する者が出ると木曽の33カ村の庄屋が全員領主の陣屋に呼び出される。その度に村民のために申し開きをするのもまた吉左衛門の役目である。


長年の奉公を認められた吉左衛門は名字帯刀を許される身分となっていた。


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木曽の山奥にも旅人を通して江戸や上方の噂が伝わって来る。
ある日、吉左衛門は浦賀にアメリカの黒船が、長崎にロシアの黒船が来航し、江戸が大騒ぎになっている噂を聞いた。

初めは大した事ではないと思っていたが、浦賀へ大砲を運ぶ尾張の家中の一隊が通り、木曽福島の役人からの「海岸警護のため公儀の物入も莫大である事、今が国恩を報ずべき時節である事、冥加のため上納金を差し出すべき事」という内容の手紙を見たりする内に次第に事の大きさを知ることになる。

これはほとんど藤村の祖父と父の実話である。しかしストーリー展開として卓越したテクニックとなっている。

木曽の山村から見た幕末の動乱と明治維新・・・これは心ときめく構図だ。


ラテンアメリカからアメリカ資本主義を見たA・G・フランク
精神病患者の視点からヨーロッパ近代を見たM・フーコー
性的に搾取されるアフリカ黒人女性からフランス帝国主義を見たフランツ・ファノン

「辺境から中央を見る」事は時に強烈なラディカリズムとなる。


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吉左衛門の息子、半蔵(藤村の父がモデル)は国学を学んでいた。
隣の美濃から地元の万福寺へ新住職が来る時、彼は微かに嫌な予感を感じる。

 「しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。

早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に就いた弟子である。寛斎はまた平田派の国学者である。
この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。

中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た漢学風の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度心寛かにこの世を見直せということであった。

一代の先駆、荷田春満をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。」



この「嫌な予感」とは半蔵が最後にそのお世話になった万福寺に火をつけ、発狂したとみなされて座敷牢に監禁される事の伏線となっている。

なぜ半蔵は寺に放火しなければならなかったのか? この実話小説の全てがこの疑問に集約される。藤村がこの小説で問いたかった事、それは平田派国学の挫折であり、明治維新とは何だったのか?という事なのだ。

これはあまりに重い問題である。

木曽の辺境から維新を見る事、平田派国学の視点から維新を見る事、二つの辺境がこの小説をエキサイティングなものにしている。


「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」

平田派国学者であった島崎藤村の父、島崎正樹は最後に発狂し寺に放火し、座敷牢に閉じ込められ、 この言葉を残して死んだ。

藤村がこの小説を「中央公論」に 発表し始めたのは1929年、昭和恐慌で日本経済が深刻な打撃を受け 、満州で関東軍の暴走が始まる時代である。

既に父の死から40年以上経って藤村は初めて父と真剣な思想的対決をした。

この小説の粗筋をここで書くと余りに長くなるので控えるが、興味のある人はここを読んでもらえば大筋と優れた書評が有る。
http://1000ya.isis.ne.jp/0196.html

さらに詳しい粗筋がここに書いてある。
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/toson-yoake.htm
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/toson-yoake2.htm 
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/toson-yoake3.htm
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/toson-yoake4.htm
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/toson-yoake5.htm


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木曽の馬籠の本陣を家業とする青山半蔵は藤村の父、正樹がモデルである。

正樹は簡単な自伝「安理能萬磨」 の他、「松枝」「常葉集」という和歌集を残している。また馬籠の本陣の経過は「大黒屋日記」に残されている。

藤村はこの小説を書くにあたって これ等の資料を詳細に検討した。

歴史家の中にはこの小説を資料として使う人もいるほどその記述は詳細を極めている。その意味ではこれは歴史小説である。

しかしもちろんただの歴史小説ではなく、藤村にとって親子対決の思想的決算であり、自分のルーツを見極めるものでもあった。

半蔵のモデルは父であるが、その言葉やそこに現れた心理は藤村の創作であり、当然藤村自身の思い入れが込められている。

さて藤村は半蔵にどの程度自分を同一視しているのだろうか?
どの程度父を批判的に見ているのだろうか?
その解釈によってこの小説の読み方はかなり変わってくると思う。 




幼い頃から父の勧めで医者にして 国学、漢学の先生でもあった宮川寛斎について学問した半蔵は、十代で既に四書五経に通じ、その後は賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らの国学の大人(うし)に惹かれていった。

お民を嫁にもらい家業も引き継いだ半蔵は江戸へ旅し平田派の正統後継者である平田鉄胤と面会し弟子入りを許可される。

その頃には家に周りの子供を集めて読み書きや国学、漢学を教える先生でもあった。



ペリー来航以来、国内情勢は激動し緊迫の度を深めつつあった。
大老井伊直弼は安政の大獄で攘夷派を投獄し、欧米列強との貿易に踏み切ろうとするが桜田門外の変で殺され、後を継いだ老中安藤信正も坂下門外で襲われる。

幕府は緊急の事態を乗り切るため公武合体を策し「和宮降家」となるが、京都の朝廷は公武合体の条件として幕府に攘夷を約束させた 。

尊攘派の志士達は外国人を襲撃し 、長州藩と薩摩藩はイギリスの艦船に砲撃を加え、イギリスは幕府に10万ポンドの賠償を請求する。

半蔵は本陣、問屋の家業に追われる生活と国学の徒としての理想の間に矛盾を感じ始める。同じ寛斎に学んだ同士、香蔵と景蔵は家業を捨て京都で昼夜を問わず国事に奔走していた。
彼等からの手紙を読んで江戸と京都の激動を知るたびに半蔵は焦りを感じる。



>あの本居宣長の遺した教を祖述するばかりでなく、それを極端にまで持って行って、実行への道をあけたところに、日頃半蔵等が畏敬する平田篤胤の不屈な気魄がある。

>同時代を見渡したところ、平田篤胤に比ぶべきほどの必死な学者は半蔵等の眼に映って来なかった 。

>「これが末世の証拠だと思うんです。金胎両部なぞの教になると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒涜というものです。」

>「わたしどもに言わせると、伝教(最澄の事)でも空海でも── みんな、黒船ですよ。」

半蔵の思索は観念的で短絡的である。何の根拠もなしに外国から入って来たものは神道、国学に劣ると決めつけている様に見える。
儒教、道教、仏教を比較しその優劣を論じた空海の「三教指帰」に遥かに及ばない。


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しかし半蔵の国学への傾倒は単なる観念でもない。
政治の激変は観念的な影響ばかりではなく木曽山中の実生活にも影響を及ぼし始めたからである。


その一つは横浜貿易によって諸物価が高騰し庶民の生活が苦しくなった事である。

物価高騰は幕府の発行する良質の金が海外へ流出し、代わりに悪質の洋銀が流入した事も原因の一つであった。
生活の困窮は下級武士から百姓まで及び、全国津々浦々にまで攘夷の気運を浸透させた。

木曽や美濃の宿場街でも本陣・問屋・庄屋を中心に平田派国学に心酔する者が次々と現れる。

宿場の民は旅館業、運送業を営みながら農業、林業も兼ねていた。

当時「宿駅制」によって「伝馬」 と「助郷」が定められていた。
伝馬は宿場に定められた数の馬を常備し、公用の荷物を無償で隣の宿場まで運ぶもので、その重い負担の代償に平時はその馬で運送業を独占する役得が認められた。そして参勤交代や年貢米の運搬などの忙しい時に伝馬を補うのが助郷で、周辺の農民に馬と人足の調達を義務付けるものである。

この助郷制度がいかに重い負担であったかは1764年にその更なる追加負担(増助郷)の命令に反対する一揆(中山道伝馬騒動)が起こった事からも伺える。

半蔵は役所に対し百姓の困窮を訴え助成金を嘆願したり、定助郷の家数を増やす事で一家あたりの負担を減らす様、百姓の意見をまとめ江戸へ嘆願書を出したりと常に底辺の百姓のために尽力した。

さらに伝馬と助郷の間の差別を無くし周囲の百姓全体で公平に負担する「全助郷制」の理想を抱く。

ここでは観念で国学に惹かれる半蔵とは全く違った、地に足の着いた半蔵が見られる。全助郷制の思想は読書からではなく生活実感から生まれている。


この小説は観念的な国学者半蔵と 馬籠本陣の生活者半蔵とのギャップを埋めようとする過程なのだ。

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やがて国学者半蔵と生活者半蔵とが交わる事件が起きる。

水戸天狗党の乱である。 水戸藩の尊皇派志士達が脱藩して乱を起こしたのだ。

幕府側の追討軍に追われ西へ活路を見いだそうとした千人余りの水戸浪士達は木曽路を通って京都方面へ向かおうとした。

馬籠は大騒ぎとなる。戦争となれば略奪はつきものだ。
馬籠の民は家財を土蔵に隠したり畑へ埋め、 女達はみな山へ避難した。

しかし水戸浪士達は想像以上に規律正しく、略奪を戒め、病気の老婆に薬代と称して銀壱朱を投げて行く者もあった。

半蔵は天狗党の傷付いた一行を歓待する。
数年前には公武合体のため和宮降家の大一行を世話した半蔵である。

和宮の一行は東海道を通ると尊皇派の志士に襲撃される恐れが有るとの事で木曽を通る中仙道を選んだのだった。

この時は幕府の為に働いた半蔵は今、倒幕の反乱軍の為に働いている。
半蔵は二つに引き裂かれていく。



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水戸天狗党の乱はこの小説の前半のクライマックスであり、藤村はその経過とその後の半蔵の行動に長い頁を割いている。

半蔵は宿泊した水戸浪士の一人、 亀山嘉治と徹夜で語り合い、彼の残した和歌を国学の同士、景蔵と香蔵に見せた。

その後、景蔵、香蔵と水戸浪士の 敗走した跡を追う旅に出て伊那に 国学四大人の御霊を祀る新しい神社を建てる。

半蔵は天狗党の乱から多くの事を学んだ。

>先人の言うこの上つよとは何か 。
その時になって見ると、この上つよはこれまで彼がかりそめに考えていたようなものではなかった 。
世に所謂古代ではもとよりなかった。
・・・・中略・・・・・ 
国学者としての大きな諸先輩が創造の偉業は、古(いにしえ)ながらの古に帰れと教えたところにあるのではなくて、新しき古を発見したところにある。

半蔵は国学者の言う「高く直き心 」「清く明らけき心」が一つのフィクションである事を自覚する。

フィクションはヨーロッパの社会契約論の様に現実を変革する武器ともなりうるが、そのためにはフィクションと現実の論理的関係が明確化されねばならない。半蔵にとって国学と現実の封建社会はどの様な関係にあっただろうか?



>この新しき古は、中世のような権力万能の殻を脱ぎ捨てることによってのみ得らるる。

>この世に王と民としかなかったような上つ代

>古代に帰ることは即ち自然(おのずから)に帰ることであり、自然に帰ることは即ち新しき古を発見することである。

>中世以来の武家時代に生まれ、 どの道かの道という異国の沙汰にほだされ、仁義礼譲孝悌忠信などとやかましい名をくさぐさ作り設けて厳しく人間を縛りつけてしまった封建社会

>これまで武家の威力と権勢に苦しんで来たもの

>百姓がどうなろうと、人民がどうなろうと、そんなことに御構いなしでいられる

半蔵にとって儒教の封建道徳と武家の圧制が重ねられ、それに対し百姓達が幸福に暮らせる世こそが 「新しき古」なのである。

これは政治思想としては実にナイーヴだと言わねばならない。
もちろんこのナイーヴさは半蔵だけのものではなく、国学者全体に共通するものなのであって、いずれはその国学の思想的特質について別に論じなければならないと思う。

半蔵は傍観者ではない。 彼は村の若い者達に国学を教え、 信州から美濃まで同士の者と連絡を取り合い世論を勤王の方向へ導こうと努力する。
むしろ父の吉左衛門に心配される程の政治的人間だ。

さて維新以後、観念的な半蔵と生活者半蔵はどの様にギャップを埋めようとするだろうか?