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岡本かの子の自然主義文学論を簡単に紹介したい。 岡本かの子は大阪万博の時に「太陽の塔」を製作して一躍有名になった彫刻家、岡本太郎氏の母親である。(上写真)

彼女は作家であると同時に仏教の研究家でもあり、芸術と宗教の狭間で悩みながら仏教文学の創作を続けた。
彼女が仏教にのめり込んでいったのは夫との確執、互いの不倫などで精神崩壊の一歩手前まで追い込まれた事がきっかけだった。



かの子は自由奔放で感情過多なシャーマン的性格だった様で、夫の買ってきた水晶の観音像を毎日拝むかと思うと、時にはヒステリーを起こしその観音像をはっしとばかり投げつけたりもしたという。また、亀井勝一郎に「釈迦が美男でなければ私は仏教を愛さなかったかも知れない。観音様でも美貌でなければ決して私は観音様を肌身に抱いてなんかいはしない。」 と語った唯美主義者でもあった。



かの子の仏教解釈はかなり独特なものである。
大乗仏教の「煩悩即菩提」の煩悩を「人間性」に、菩提を「生命」 に読み替える事で仏教の精神をスピリチュアルな生命主義として読み解こうとした。
かの子は宮沢賢治と共に「大正生命主義」の流れを代表する人と見なされている。



かの子は自然主義の極致が天台哲学の「十界互具」に行き着く可能性を秘めていたとしてドストエフスキーを例にあげている。

「十界互具」は「摩訶止観」で説かれる天台哲学の核心中の核心である。
衆生の生命の境涯として仏、菩薩 、縁覚、声聞、天上、修羅、人間 、畜生、餓鬼、地獄の十界が有る 。もともとバラモン教で「天、人間 、畜生、餓鬼、地獄」間の五道輪廻論であったものを生命の境涯と読み直したものだ。

この十界のそれぞれが他の九界を内に含んでいる、と主張するのが十界互具である。
十界がそれぞれ十界を含むのだから百界となる。これにさらに十如是、三世間が掛け合わされ三千世間となる。

ほんの少し心の一念を動かしただけで三千世間、即ち宇宙全体にそれが響き渡るという「一念三千」 という遠大な理論となる。この一念三千の法門の核心が十界互具なのである。


どんなに菩薩の様に善人に見える人でもその内には修羅や地獄を抱えている。
自分の内に修羅や地獄を抱えているからこそ、修羅や地獄にいる他の衆生を思いやり救う事ができるのだという。

また悪魔のように見える人でも例えば自分の子供に対する時には菩薩の心になったりもするし、菩薩や仏を内に蔵するからこそ救われる機縁も生まれて来るのである。

この「十界互具」は善人と悪人を差別的に分断し、固定的に理解する素朴な勧善懲悪的人間観を根本からひっくり返すラディカリズムである。






さて、ここまでは前提である。
岡本かのこ氏の自然主義文学論を見てみよう。



「19世紀に始まった文芸の自然主義は人間性質の中から動物的本能を容赦なく抉出して人間の虚飾な理想を打ち破るべく起こった文学であります。

前に述べました天台学の分類に従えば、人間心の中で特に修羅、畜生、餓鬼、地獄の心に科学的のメスを突き入れた文芸であります。」

「自然主義の作家達の中には、人間の心に科学的のメスを突き入れて人間の心を病原の標本の様にアルコール漬けにしてしまうのもあり、冷たい死屍のままで木乃伊( ミイラ)にしてしまうのも有りました。

然し中にはその醜さの中から高貴な光が放たれて来るのに気付いた作家もありました。」

「醜陋の臓腑と高貴な心臓とは生命的に脈絡あることを発見しかかったのでありました。

すなわち天台学でいう十界互具に該当しかけたのであります。」

「露の文豪ドストエフスキーのカラマゾフ兄弟などを見ると、作の動機が前述の十界互具に置かれてあることが明白であります。」



一から十まで全く同感である。

「カラマーゾフの兄弟」の発表された部分は第1部であり、第2部では熱心なクリスチャンのアリョーシャと無神論者のイヴァンの人格が入れ替わり、アリョーシャが罪を重ね、絶望の果てに最後に再び信仰に戻っていく物語になる予定だった事が未発表の原稿から分かっている。



自然主義の中に可能態として存在した十界互具の深遠な摂理、日本の自然主義作家達はこれに気付いただろうか?