神島二郎にとって擬制村「第二のムラ」こそ天皇制ファシズムの温床となったものであり、その特徴について詳説している。その中で全体の論旨と「欲望自然主義」を結ぶものとして重要だと思われる観点を幾つか記しておく。


(1)奢侈と過倹

これは自然村的秩序における「ハレとケ」の変形である。日常生活での極端な禁欲と宴会における集中的発散。(無礼講)
これは戦前の日本軍人の驚異的な精神力と酒の席でのだらしない女遊びが一つの人格の中に両立した可能性を示すものとして、またこれが国家的に拡大した時に戦地でのすさまじい略奪や婦女暴行を説明するものとして、重要であると思われる。
もちろんこれは日本人に限らず、沖縄の米海兵隊などにも同じ事が言える。


(2)放縦としての自由

これは自然村における拘束の裏返しとしての自由であり「旅の恥はかき捨て」という言葉に示される通り露骨な自己主張と実力闘争に終始する自由である。維新直後の1870年代に「夜這い」が流行るなどの性的乱脈、街中での書生の乱暴な言動、暴れる酔っぱらいが咎められると「自由の権」を叫ぶなどの例が挙げられている。


(3)スキンシップ・デモクラシー

上に関連して、社会の横の連帯の基礎が、西洋近代では平準化された作為的「美態」の共同にあるのに対し(サロン文化や社交界の風俗を指していると思われる)、日本では生理的に最も自然な「醜態」の共同にあるという伝統。
・・・これは新渡戸稲造の指摘を例に挙げている。曰く

「日本の如く礼儀作法をやかましく云ふ国はあるまい。それにも関わらず個人の交際に於ても又公の場所に於ても、行儀の悪い点については日本人ほど甚だしいものはないように思われる」
「西洋の旅館にありては不潔なことをする時は一人一人隠れてする様な仕組に出来てゐる。・・・中略・・・日本はその反対である、一番醜態を現はす時、最も多く他人と接触する仕組である。」と指摘し、朝の洗面所、浴場、服も着替えず食事をする習慣などを挙げている。

神島はこれを重視し、大正デモクラシーにおける「エロ・グロ・ナンセンス」が単なる風俗以上の政治的な意味を持つ、即ち大正デモクラシーが広く庶民に支えられるにはここまで行かなければならなかったのではないか?と言う。




天皇制国家はその根拠を「第二のムラ」というクッションを通して「第一のムラ」(自然村的秩序)に置いていたと神島は考える。

自然村的秩序の社会的基礎は一系的大家族である。それは相続、祭祀を長男に限定するものであったから二男、三男の浮動化につながる矛盾を孕むものだった。明治維新後、祭祀権の分割、分家相続による一系型から末広型小家族への転換が広がったが、小家族化は古い自然村的秩序の解体にも繋がるものであった。

従って本来なら自然村的秩序に替わる近代的な個人主義がそこに生まれるべきだったのである。しかし近代化があまりに急速であった事、また次回に説明する武士的エートスの暗転などにより、必要以上に享楽的な「独身者主義」が都会に形成された。

神島は欧米の個人主義が夫婦の愛情を基礎にしたものであるのに対し、日本の「第二のムラ」が独身者主義の形で形成されたと考える。

それが従来から伝統的に存在した「ハレとケ」のリズムや「醜態の共有」というスキンシップ・デモクラシーと合体する事で定着し、「励起」現象によって極端化し、私欲と公道徳の西洋的な調和の原理(=ゲゼルシャフトを形成する内的原理)が成立しなかった、と神島は分析する。

日本の「第二のムラ」はゲゼルシャフトではなく、そこにあるのは「第一のムラ」への回想だった、という神島の基本的視点は「励起」「群化」などの補助概念で補強されてきたが、さらに「退行」というフロイトの概念を使っても説明されている。

それは(現在ではなく)過去の共同体への退行なのである。それは学校における秩序訓練の内容が成人後の社会生活の現実とかけ離れているからであり、その仮構への退行が権威によって社会的に保証されるとその仮構は「白昼夢」となり、現実に優先し現実を隠蔽するのに役立つ。
(そのような社会と遮断された秩序感覚を純粋培養しようとする例として第一高等中学の「籠城主義」を挙げている。)

この「秩序感覚と経済的基盤との分離、ズレ」は資本主義化による経済的基礎の分解からの影響をクッションする長所ともなる。

しかし逆に経済的基盤の崩壊が危機的段階に達した時には、それが庶民には階級分化として映じず「秩序感覚の不安」として現れるがゆえに、それは「正体の分からぬ危機」であり、対処できない危機となるのである。

真の意味で対処するとすれば、それはイギリスのように農村まで資本主義化するか、または自然村的秩序を防衛する日本型資本主義、欧米型とは別なシステムを模索するしか無かったのだろうと今から思えば考えられる。

しかし実際には独身者の個人が回想として持っていた自然村的秩序が「皇国農村」という形で自覚化された時、それが国家スケールで幻想的に再興される、という経過を辿ったと考えられる。