三宅雪嶺は明治時代の思想史について興味深い事を述べている。
征韓論は攘夷論の変形であり民選議院論は尊皇論の変形だと言うのである。



覇道と王道をはっきり峻別した孟子の民本主義が欧米の民主主義と重ねて見られた事は或る意味で自然な事だと思う。僕が前に書いた儒教と欧米型民主主義の論理的不整合(http://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/39824887.html)に気付かないのは欧米思想が輸入されて間もない明治時代には仕方無かった。




僕がむしろ興味を持つのは「攘夷論が変形して征韓論に繋がった」という見方である。

「自由党は征韓論者の変形とも言うべきであって、自由民権を叫び、主権在民を口にしても、常に国権拡張を是認し、侵略をもいとわぬ方であった。」

「いわば自由党は征韓論および民選議院論を併わせ、改進党は征韓論を非とし民選議院論のみを執った姿である。」




米仏のより急進的な民主主義を主張した板垣退助らの自由党が征韓論を主張し、穏健なイギリス流の立憲君主制を執った大隈重信らの改進党が征韓論に反対した事、この意味をよく考える必要がある。




雪嶺はこれをどう見ているだろうか?

「自由党に壮士が多く、腕力をもって人を脅かし、ややもすれば凶器を使用するに至ったのは、他にも種々の事情があるが、自由主義の下にことに否認するの理由を見出さなんだのである。」

「自由党員の素養を察すれば知識のはなはだしく浅いのが多く、漢学仕込みであって何ほどか米仏の事情を聴きかじったくらいである。」




つまり改進党に比べ自由党は知識が浅く、民主主義でも対外政策でも過激で暴力的だったという解釈である。思想の理解が浅い状況ではこういう単純な理由も当たっているのかも知れない。しかしそれだけではないだろう。

そこにはよく言われるように下級武士の不満を対外強硬論へと反らそうとした、という理由も否定できない。そして改進党より自由党に現状に対する激しい不満を持つ武士が多かったという事である。




雪嶺もこれを認めている。

「当時維新の役わずかに終えて、武人みな用兵の念に切なるの際、朝鮮政府わが日本人のその地にある者を攘斥するの挙動ありと聞く、さらに兵をこれに加えんとするはその自然に想いて到るべきところ」(「西郷隆盛とガリバルジー」より)




帝国主義の時代、「民族自決」の概念も無かった時代である。防衛戦争と侵略戦争の境界は侵略された国では強烈に意識されるが、一般的には曖昧であり、しかも日本は「欧米に侵略されかかった」という被害者意識であるからなおのことである。

富国強兵、国権の拡張は「世界に雄飛する事」であり、それを疑う者は明治時代の日本にはいなかった。攘夷と征韓論とは確かに「国威発揚」の根本精神で繋がっていた。




これは言葉を変えれば「日本は欧米の圧力による強制開国、不平等条約などから来る劣等感を東アジアに対する優越感で補償しようとした」とも言えるだろう。







民主主義とナショナリズムの内的連関を説いたのはルソーの「社会契約論」である。しかしこれは外国からの反革命の干渉に対する防衛としての「革命防衛戦争」であって、侵略戦争と民主主義の結びつきを説いた訳ではない。




しかし考えてみれば帝国主義時代の英米仏はみなそうだったのだ。そこでは国内民主主義と植民地建設が並行して進行し、ルソーの論理を超えて社会進化論によってそれが正当化されたのである。日本は謂わば近代を飛ばして超近代の論理を欧米から輸入したのだと言える。




この近代を飛ばして超近代の論理が輸入された事は哲学の受容の仕方にも現れている。




民権運動では自由党が米仏、改進党が英国の民主主義を理想としたのに対し、政府側、特に伊藤博文はプロイセンの政治を範とし、そこから漸くドイツ思想が哲学界においても注目される事となった。




フェノロサは初めはスペンサーの社会学を、後に東京大学でカント、フィヒテ、ヘーゲルを講じた。雪嶺はこれを進化論の科学万能主義に対し唯心論(本当は唯心論ではなく観念論だが)が耳新しく聞こえ、しかしヘーゲルが同じ進化論的な方向を示しているので、かえって進化論が定着したと評価している。




フェノロサはスペンサーとヘーゲルを総合する事を目指した。近代哲学の原点としてのドイツ観念論が日本では初めから社会進化論と繋がるものとして受容されている事は注目に値する。




これは前に指摘したロックやルソーの社会契約論がスペンサーと同列に理解されている事、近代を超克しようとしたニーチェがむしろ近代的個我の確立の原理として理解された事、ドストエフスキーが「人道主義」の文学として理解された事などと合わせて、欧米思想の段階を踏まない急激な輸入が引き起こした混乱と僕は評価する。