丸山真男は1947年に書いた「陸羯南──人と思想」で羯南を大変高く評価している。



「彼は後進民族の近代化運動が外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる歴史的論理を正確に把握していたのである。」



「これら民権論者(板垣退助、中江兆民、植木枝盛など)は自らの天賦人権の理論的立場と具体的な国権拡張論とがいかにむすびつくかについては多くは無反省であった。」



「それに比べれば羯南らの立場ははるかに一貫したものを持っていた。羯南は日本国家を遠心的要素(個人自由)と求心的要素(国家権力)との正しい均衡の上に発展させようとした。」





丸山は民権と国権、デモクラシーとナショナリズムの内的連関を多くの民権論者が無自覚であったのに対し陸羯南は自覚していたと評しているのである。



この丸山の評価は的確だろうか?

この問いは丸山学派の近代国家論は的確かどうかという問いにも繋がる事になる。



この事も念頭に置いて「近時政論考」を検討してみたい。










陸羯南はさすがに法学畑の人らしく、板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党の性格について三宅雪嶺よりも踏み込んだ説明をしている。



羯南によれば、自由党は自由と名がついているがフランス革命的な平民主義(デモクラシー)であり立憲改進党の方がイギリスの温和な自由主義(リベラル)である。



これは板垣、大隈自身の言葉からも知られる事だが、陸羯南の独自な点は急進的な自由党と君主主権を主張した右派たる帝政党をどちらも維新直後の加藤弘之、津田真道らの後継者とし、国権論と民権論は初めから表裏一体であったと主張する事にある。





これに対し大隈重信の立憲改進党は福沢諭吉の系譜を引くものと彼は考える。

もちろん羯南は大隈と同様、イギリス的な立憲君主制を支持しているのである。しかし羯南は福沢諭吉の経済優先的な思想に関してはかなり批判的である。当時福沢諭吉は「拝金宗」と批判する人も多かったらしい。





羯南は福沢の思想を次の様に分析する。

(1)「私利は公益の本なり」との理由で利己主義を唱える。

これは明らかにアダム・スミスに依拠しており、羯南は福沢諭吉らの立場を「国富論」と呼んでいる。



(2)政治的にも支配被支配の関係を契約によるものとし、「主君の為に死す」といった観念を否定する。

これは神島二郎が「日本ではマイナスの私を公に繋げ、西洋はプラスの私を公に繋げる」とした問題であり、経済ではアダム・スミスで確立された原理が政治では社会契約説にその対応物を持っているのだが、ここに難しい問題が絡んでくる。英米の分権的原理と独仏の集権的原理の対立である。



周知の通りイギリスの自由主義はマグナカルタに現れた様に、国家を近代化、中央集権化しようとする国王に対し貴族が封建的特権を確保しようとする反近代、反中央集権の動きから始まり、それがジョン・ロックの社会契約説にまで尾を引いている。



ロックではホッブスやルソーと違い社会契約によって個人は自然権を全面的に明け渡すのではなく一部(最も重要な生存権を)手元に残して置くのだ。



イギリスの個人主義、自由主義は非常に政治的ではあるが民権と国権は相克の関係にある。それは極端に言えば反近代主義、反ナショナリズムなのである。




これに対しフランス革命でのジャコバン党の独裁と恐怖政治はロックの思想からはどうしても生まれて来ないもので、個人主義を徹底する事で独裁を正当化するルソーの「一般意志論」によって初めて可能となったものだ。



ルソーの思想には両極端の一致とも言うべきヒステリックな側面がある。



そして(ここが重要なのだが)ルソーによって初めてデモクラシーとナショナリズム、民権と国権は一致するのである。





福沢諭吉はトクヴィルに示唆されて分権論を説き、それは失業して地方に蓄積されつつある士族の不満を考慮したものと根拠付けられているが、福沢のイギリス的性格を示している。



陸羯南は福沢の立場はイギリス進歩党とアメリカ共和党の折衷であると言う。





福沢諭吉の論はロックからアダム・スミスで体系化された英米型市民主義をそのまま輸入したものだがそれがカルヴァン派という宗教と不可分に結び付いている事は認識されていない。










これに対し加藤弘之らの国権論は、国家の近代化すなわち中央集権化、行政機構の整備、富国よりも強兵を説いた。



福沢諭吉の説が英米型自由主義の輸入だとすれば、加藤弘之はフランス型絶対王政の原理の輸入である。



ヨーロッパ近代国家の原理、即ち国家と市民社会の分離、権力と道徳の分離、自立した国家理性などは市民革命以前にまず絶対王政によって確立されマキャベリの君主論で定式化された。



国権論派がこの事を認識していたとすれば歴史をかなり深く研究していたと言える。










陸羯南は加藤弘之らのグループやその後継者としての自由党のグループが民権論から国権論に傾斜していったのは転向ではなく、彼等がもともと民権と国権が相乗的関係にあるフランス流モデルに基づいているからだというのがこの「近時政論考」全体の趣旨なのである。



羯南はイギリス流とフランス流の根本的違い、分権的なイギリスと中央集権的なフランス、それが大隈重信の改進党と板垣退助の自由党の差に繋がる事、従って2党の差はある意味では対極であり単なる穏健派と急進派というものではない事、ここまでは理解していた事は分かった。




では彼はそのイギリス流とフランス流の理論的違いの本質を掘り下げて分析しているだろうか?