大学の経済学では古典派経済学とマルクス経済学は「労働価値説」、限界革命以降の近代経済学は「効用価値説」であると教える。これは経済学の表面だけを見ている誤解である。

アダム・スミス、リカード、マルクス、ワルラス、マーシャル、ケインズ等、経済を社会学的な視点も含めてラディカルに考察した学者は全て労働価値説と効用価値説の総合である。

原典をきちんと読まずに概説書による勉強で済ました人間が上のような誤解をするのである。

ただ古典派は「労働価値」が社会の深層構造であり「効用価値」は表層構造であると考えたのに対し、近代経済学は労働価値と効用価値を並列に並べて両者の連立方程式を解こうとする。

こう書くと疑問に思う読者が多いだろう。近経のどこに労働価値が説かれているのかと。

答えは「限界生産力逓減の法則」である。

効用価値だけで価格が決まるのであれば、価格は需要曲線だけで決まるはずである。言い換えれば供給曲線はX軸に対して平行になるはずである。限界生産力逓減の法則は隠れた労働価値説なのだ。

具体的に考えてみよう。山の上のレストランで魚を食べると高く付く。これは何故か。「山の上では魚は稀少価値だから」と考えるのが近代経済学、「山の上まで魚を運ぶのが手間がかかるから」と考えるのが古典派経済学である。

しかし考えてみればこの二つは同じ事を言い換えているに過ぎない。「稀少性」という概念は「効用価値」より「労働価値」に近いのである。

例えば空気。これは効用価値は無限大である。しかし労働価値は0だ。「稀少性」は?もちろん0だ。

ダイヤモンドはどうか?本来の人間の生活にとっての効用は0である。しかし労働価値は非常に大きい。だから稀少性は非常に大きい。

近経の教科書では稀少性を効用価値のように言いくるめて、みんなが(経済学者までが)それに騙されている。

これはマルクス経済学に対抗するためにこのような宣伝がなされていたのであり、労働価値説を抹殺する事により階級関係、及び先進国と発展途上国の間の搾取関係を隠蔽する事が新古典派のイデオロギー的性格をはっきりと示している。




学問のイデオロギー的性格は社会科学のみならず、自然科学から数学にまである事はエルンスト・カッシーラーやフランツ・ボルケナウによって圧倒的な説得力をもって論じられている。

例えば17世紀の「衝突運動論」は、あらゆる物体の運動が他の物体の衝突からしか生まれない、と考え、視覚像や味覚、嗅覚はもちろん、電気や磁気まで「微少な粒子の衝突」によって説明しようとしたが、それは絶対王制の時代の「政治的反抗の否定」の論理と平行関係にある。

両者は「感性的自然の中には理性的秩序はない」という事、
従って「自然は自分をコントロールする原理を自分の中には持たない」という事、
従って「自然は外側からの強制力によってしか動かす事ができない」という事を示しているのだ。

それは宗教戦争の時代の「性悪説」の反映なのである。



「衝突運動論」はあのデカルトまで信じている。
彼は惑星や恒星の回転運動はエーテルの回転に押されて起こるのだと考えた。

彼の中ではルネサンス的「性善説」とバロック的「性悪説」とが戦っているのであり、解析幾何学がルネサンス的「性善説」の、「衝突運動論」がバロック的「性悪説」の表現である。

この両者の矛盾により彼の「幾何学的世界観」は「物理学的世界観」に発展する事に挫折したのであった。しかしこの事についてはまた別の機会に詳しく論じようと思う。

ここでは現代の自然科学を「時代を超えた真理」と考えるのが如何に間違っているかという事だけを指摘しておきたい。



ニュートンの「万有引力」の概念は「衝突運動論」を最終的に葬り去った。
それは「自然物の運動が外からの衝突によらなくても起こりうる事、力が衝突によらず遠隔作用を及ぼしうる事」を証明した。これは啓蒙主義の性善説の勝利であった。

しかしニュートンは万有引力の哲学的、形而上学的根拠を考える事を断念した。
(これはアインシュタインによって「空間のゆがみ」として初めて示された。)
これは啓蒙主義、及びその根拠になった理神論の「神と世界を切り離す事」と並行しているのである。




法律では「権利」を「物権」と「債権」に分類する。
近代法では「物権と債権がぶつかった場合、債権の方が優先される」という大原則がある。
「近代法における債権の優越的地位」はドイツの法哲学者ラートブルフによって明らかにされたが、日本の憲法学者である吾妻栄は、それが法律学の中だけでは説明できず、究極においては「産業資本より金融資本が優越する」点にその根拠がある事を示した。


どのような学問でもイデオロギーとしての性格は免れないのである。