もう7年も前の事になるが、アントニオ・ネグリの「帝国」という本が日本やフランスの左翼諸君の間で結構もてはやされているようなので読んでみたが、正直言ってガッカリした。はっきり言って言葉の遊びのような本である。


この本に何が欠けているか、具体的に挙げてみよう。

(1)まずグローバリゼイションについて語りながら、その担い手としての多国籍企業やWTOについて一言も触れていないのは致命的だ。

彼らはただ国連全体について書いているだけで、それがマキャベリ的なモデルからJ.ロック的なモデルへの転換であり、その延長上に分散的権力としての「帝国」があると言っているだけである。

(2)現代のグローバリゼイションでは資本と商品の移動は自由であるが労働力の移動が自由ではなく、従って本当に市場が統合されるわけではないのだが、その肝心な事に触れていない。

(3)投機主導型の経済がポジティヴ・フィードバックであり、それがアダム・スミスの「神の見えざる手」を破壊しつつある事に触れていない。




しかしこの本を読んで勉強になった事がある。それは彼らの国家観がバートランド・ラッセルなどの英米の哲学者の発想と共通しているからだ。彼らの考えはこうだ。

演繹的(ドイツ的)な思考法が中央集権的組織を生む。
帰納的(英米的)な思考法が分権的組織を生む。

単純な発想だと思うが、歴史に照らし合わせて見ると憎たらしい事にかなり当たっていると言わざるを得ない。


英米哲学を馬鹿にしてはいけないと思う。
カントの「数学的命題は先験的総合判断」という説はラッセルによって完全に論破されている。





この本のもう一つの成果は「民主主義と神学の平行関係」を明らかにしている点である。


欧米型民主主義は1つの矛盾的存在である。
それは支配者と被支配者を一致させようというのだ。
個々の個人としては被支配者である。しかし全体としての国民は主権者である。

これはかなり無理のあるモデルである。直接民主制でも少数の反対意見を弾圧する根拠を示す事は難しい。ルソーの「全体意志」と「一般意志」のアポリアがそれを物語っている。

そしてこの矛盾は、実はキリスト教の神学が抱えていた「自然から超越しつつ、自然の中に内在もする神」という神学的アポリアの世俗化なのである。
自然を大衆、神を主権者と読み替えれば明らかであろう。