中国西部、甘粛省の西端に位置する敦煌は、東と北はゴビ砂漠、西はタクラマカン砂漠が広がり年間雨量が40mmに満たない乾燥気候だが、南側の祁連(キレン)山脈の豊かな地下水によってオアシス都市として栄えてきた。記録によると唐の時代には大きな川も流れていたらしい。
  
8AD03AA4-E3E7-4C26-86BE-91C88FD7A9A6
                地図はこちらから借用  http://home.m01.itscom.net/shimizu/yultuz/silkroad/history/

敦煌は上図の通りシルクロードの三つのコース(天山北路、天山南路、西域南道)の合流点となる経済的要所であり、また漢の武帝がこの地を匈奴から奪って玉門関、陽関が整備されて以来、西域経営、遊牧民族対策の軍事的拠点ともなり、いわば「地政学的な重要拠点」であった。


莫高窟は敦煌市街の南にある鳴沙山の東崖を削り穴を掘った石窟寺院で、南北約1600mにわたっている。伝説では後漢が滅びた後、五胡十六国が乱立する366年、仏教僧の楽僔が掘り始めたと言われ、以来、元王朝の時代まで1000年にわたる仏像、壁画が残っている。


2056BF0F-0B67-4FF9-9359-A02EDD001EB7


今回はその中で初唐時代の壁画を3点取り上げる。




<第57窟 観音菩薩>

第57窟の「仏樹下説法図」は結跏趺坐の仏陀の周りに観音菩薩、勢至菩薩などが寄り添う構図となっているが、残念ながら仏陀と右の勢至菩薩が黒く変色し、左の観音菩薩だけが美しいまま残っている。



観音菩薩は本来は中性だが中国では女性として描かれる事が多く、第57窟はこの観音菩薩のおかげで「美人窟」と呼ばれるようになった。

この画は「瀝粉堆金」と言って白い部分は石膏を袋からチューブを絞る様に塗り付け、宝冠や首飾りの金色は金粉を漆喰と混ぜてペースト状にして塗り付ける技法で金色の部分が僅かに盛り上がっているそうだ。荘厳と言うよりは柔和で癒し系の表情をしている。



<第321窟 飛天>


0C975DC7-D05E-46EA-8E52-5A0581A3CFB5


莫高窟には如来、菩薩だけでなく、その周りを飛び回る飛天の図も多い。第321窟の飛天の羽衣はたなびいて雲の流れと一体化している。

そしてこの雲の象徴的表現にも驚かされる。白、黒、青、白みがかった青緑、ベージュ、少なくとも五色が使われている。自身の意志を持つかのようにうねり、渦を巻き、たなびく方向も自由自在だ。
空とも海ともつかない霊界を表すかの様な背景の鮮やかな青にはラピスラズリが使われている。

この飛天と雲の揺らめきはスペインのエル・グレコを連想させる。
だがあちらは信仰の炎の上昇気流による激しい揺らめきであるのに対し、飛天の揺らめきは水の様に優しく、自由で涼しい。



4CB4917D-7036-4CFC-B5D6-3B0D1DEE73FA
         写真はこちらから借用 http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/30474534.html

この飛天も第321窟の物だ。この柔らかい優美な動きはどうだろう?
中国の説明によると飛天はインド神話の歌神ガンダルバと楽神キンナラが合体したもので、さらに浄土のイメージと道教の天女のイメージが合流していると言う。https



飛天の舞は今もダンスを見る事ができる。




この流動性は僕には漢民族本来のものというよりは北方騎馬民族の生活に影響を受けていると思われる。砂丘の砂嵐のイメージ、そして遊牧生活の流動性などに由来するように見えるのだ。

日本の白鳳美術は初唐様式、天平美術は盛唐様式の影響が強いと言われる。重厚で豊満な天平美術に対し優美さと荘厳さが絶妙なバランスを保つ白鳳美術の流動美はこの西域独自の文化から来ていると僕には思われる。


102BB156-9D43-4D25-9DCF-44EBC14590EE
                          白鳳美術の 薬師寺 月光菩薩像