武士的エートスの濃厚な陸羯南が福沢諭吉を嫌った事はこれまで見てきた通りだが、逆に福沢は儒教的武士道を攻撃している。

戦後、丸山真男が福沢を非常に高く評価して以来、日本のいわゆる
「進歩的知識人」の多くがその評価に追随してきた。

彼等によれば福沢は卑屈だった日本の庶民に独立自尊を教えた偉大な啓蒙主義者である。庶民の奴隷根性を憎みそれを叩き直さねば国家の独立も危うくなると警鐘を鳴らした点では中国の魯迅に較べられるかも知れない。


ところが今世紀に入ってから安川寿之輔氏の詳細な研究により、福沢諭吉にはアジアへの蔑視、無教養の者への蔑視という本音が有った事が明らかにされた。

自由民権の先駆者を自認する福沢は一方では過激な民権運動に対しては「無智の小民」「百姓車挽き」は啓蒙しても効果が無く宗教による教化が必要だと主張、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」と無教養の者と障害者と宗教を罵倒する言辞を吐いている。

丸山真男と安川寿之輔のどちらの福沢像が真実なのだろうか?
これから2回に分けて福沢諭吉の思想を検討してみたい。

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福沢諭吉の父は備前中津藩の貧困な下級武士であった。伊藤仁斎の息子、伊藤東涯を師と仰ぐ儒学者で「銭を見るのも穢れる」と言うほど金儲けを軽蔑したが、藩では元締役といって大阪の蔵屋敷に勤番し、藩が大商人から借金する経理や交渉を管理する仕事をさせられ大いに不満を持っていたらしい。

諭吉の兄や姉が蔵屋敷で手習いを始めたが師匠が九九を暗唱させたのに「幼少の子に銭勘定を教えるとはもってのほか」と腹を立てやめさせたというエピソードが残っている。

父は諭吉を立身出世させるためには僧侶にするしかないと考え寺に入れるつもりだったようだ。諭吉はこの時の父の気持ちを考えると涙が出ると語り「門閥制度は親の仇に御座る」とまで言う。


そういう訳で、彼が儒教を嫌う最大の理由はそれが彼の言う「門閥制度」(封建的身分秩序)を支えるものだからである。

もちろんこれは半面の真理であり、魯迅の孔子批判、文化大革命での孔子批判でもこれと同じ論理が繰り返された。

しかし少し理屈をこねれば、イギリスのピューリタン革命では千年王国論が大きな役割を果たしたし、自然法思想も元を辿ればヘレニズムのストア哲学のものである。古代的な思想が装いを変えて近代思想として生き返るのは珍しい事ではない。
中国でも康有為の「変法運動」の思想は遡れば遠く漢時代、董仲舒の春秋公羊学にまで遡れる。

明治の儒学者達は時代遅れなのを知りながらやはり儒教道徳の深さに魅力を感じていたのであり、福沢諭吉がそれに専ら敵意を感じるのはやはり彼独特の迷信嫌い宗教嫌いによると思われる。

諭吉の迷信・宗教嫌いは多くのエピソードがある。彼の家は浄土真宗で特に母親は慈善家だったらしく、「チエ」と呼ばれた近所の乞食の女をよく呼んで座らせ頭の虱を取ってやったそうで、諭吉も石で虱を潰す手伝いをさせられたそうだが、彼はそれを「今思い出しても胸が悪くなる」と嫌悪感を語っている。

その他にも神社のお札を踏んだり、御神体を石に換えたりしてバチが当たらなかった事を愉快な思い出として語っている。

少年時代の諭吉は読書が嫌いな半面手先が器用で、障子張り、下駄の鼻緒修理、畳表の付け替え、竹を割って桶の箍はめ、刀剣の細工など何でもこなし、次第にそれで内職するようになった。彼の「自主独立」の思想や商人への共感はこの子供時代の体験に原点が有りそうだ。

諭吉の兄が父の教え通りの堅い儒学者となったのに対し、諭吉は兄に将来の夢を聞かれて「日本一の大金持ちになりたい」と答えて兄に苦い顔をさせた。

ここで福沢諭吉が島崎藤村と似ている事を考えずにはいられない。
銭勘定を極端に嫌った父に対し諭吉は商売の感覚に早くから目覚め、乞食の世話をする慈善家の母に対し諭吉は社会的弱者を軽蔑する人間となった。

>およそ世の中に無知文盲の民ほど憐れむべくまた悪むべきものはあらず。智恵なきの極みは恥を知らざるに至り、己が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍らの富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。

これは「学問ノススメ」の中の一節である。諭吉の自主独立の精神はこういう差別意識と裏表になっている。


福沢諭吉は固定された身分秩序を敵視し知識の有無によって選別される流動的なヒエラルキーを是とした。

階段を登る競争は自由で公平でなければならない。そして競争が自由で公平であるならば、落伍した者は軽蔑されて当然である。これが福沢の考え方である。

福沢に「反差別」という発想は無い。社会的弱者に対する共感も皆無である。ここが同じ啓蒙思想家でも福沢と魯迅の根本的に違う所だ。