ヒズボラ以前のレバノンの民兵組織について簡単にまとめる。

ファランヘ党(英語読みではファランジスト党)はキリスト教マロン派の軍事組織である。

マロン派は東方正教会の分派で一時ローマ・カトリックから異端宣告されたが、十字軍時代にイスラム教徒との戦いの中でカトリックと再接近し、その後カトリックの教義に同調、しかし独自の典礼を維持する独特の宗派となっている。

レバノンのキリスト教の中でマロン派が最右派で、イスラエルのレバノン侵攻の際にはイスラエル軍と呼応してパレスチナ難民に対する虐殺事件を起こした。ギリシャ正教徒はイスラム教徒寄りの左派が多く、アルメニア正教徒は中間派と言われる。

ファランヘ党はエジプト出身の歯科医ピエール・ジェマイエルが1936年にレバノン独立を目的にイタリアのファシスト党やドイツのナチスを模範にしたファシズム政党として結成。
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ピエール・ジェマイエル

フェニキア主義に基づくレバノン・ナショナリズムを主張し当初はフランスの委任統治から独立する運動であったが、独立後はイスラム勢力に対抗するため、親イスラエル路線に変わっていった。
1958年のレバノン内乱以降、党の武装化を推し進め、ピエールの次男バシール・ジェマイエルは積極的な反シリア主義路線を敷き、パレスチナ難民排除を訴えて党のシンボルとなった。
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バシール・ジェマイエル

1976年にはバシールはファランヘ党を中心に自由党、タンジーム党、レバノン防衛隊などのキリスト教右派の軍事部門を合併し民兵組織レバノン軍団を結成。
ファランヘ党とレバノン軍団は「PLOとパレスチナ難民がいるからイスラエルに攻撃されるのだ」と主張、パレスチナ難民追放を訴えた。

1982年のイスラエル軍の侵略でPLOはレバノンから追放されチュニジアへ本部を移した。
バシールは大統領に選出されたが、ファランヘ党本部で演説中に爆弾が爆発し、バシールのほか26人の党員が爆殺された。
ファランヘ党はそれをPLOの残党の仕業と決め付け、その報復としてベイルートに暮らすパレスチナ難民を襲撃、大虐殺を行った。(サブラー・シャティーラ虐殺事件)なお、バシール爆殺事件で逮捕・起訴され有罪となったのは実際にはシリア社会民族党の党員であった。

イスラエルのリクードが本来ファシストであったのと同様、レバノンの親イスラエル勢力もまたファシスト政党として作られた事は驚くべきことである。





アマルは1974年春にレバノンのシーア派指導者、ムーサ・サドルが率いる「シーア派イスラーム評議会」(HSIC)の軍事部門として結成された。

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                          アマルの指導者 ムーサ・サドル

当初はイスラム主義者が多かったが、ムーサ・サドルがリビアで失踪すると、1980年にアメリカ市民権を持つナビーフ・ビッリーが代表に就任し世俗路線に転換、これに反発したイスラム主義派はイランの支援を得てアマル反主流派を結成したが80年代初頭にヒズボラに発展的に解消、世俗派のアマルとイスラム主義のヒズボラという構図となった。現在のヒズボラの指導者はハッサン・ナスラッラー氏である。

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                               ヒズボラの指導者 ハッサン・ナスラッラー

アマルは内戦中はシリアやファタハから軍事支援を得て、ファランヘ党やレバノン軍団、自由レバノン軍などのキリスト教右派やイスラエル軍と戦った。親シリアの姿勢が明確で、シリアとPLOの軍事衝突の際にはシリアに加担した。
今は世俗路線をとることから、原理主義を嫌悪するシーア派住民に支持されているとされ、ヒズボラと勢力を二分する。内戦終結後に武装解除され、政党化(合法化)されたが、現在も限定的に重火器を保有すると考えられている。
現在は、レバノン国民会議議会内の親シリア派勢力をヒズボラと共に率いている。
アマル政治局議長のナビーフ・ビッリーはレバノン国民会議(国会)の議長である。

タウヒードは本来イスラム教義の核心をなす「神の唯一性」を意味する神学用語である。スンニ派の民兵組織がハーシム・ミンカーラを最高指導者として「イスラム・タウヒード」(イスラム統一運動)を名乗るのは1982年だが、それ以前からスンニ派の民兵組織は有ったはずであり、名前はよく分からない。