実はこの間、ヒドラやイソギンチャクの触手、軟体動物のU字に屈曲した消化管、節足動物の体節構造などを研究する間、「これはタントラ的だ」 という観念がずっと頭から離れなかったのである。

生物学者は消化管の屈曲は固着生活に対応するためだと言う。それは正しいかもしれない。しかしそれなら運動する巻貝やイカ、タコでは何故直線的な構造に戻らないのだろうか?
消化管の屈曲は他にも深い意味があるのではないか?

消化管の屈曲という点では脊椎動物、特に哺乳類の腸も同じだ。生物学者はこれに対しては「小さい体積で表面積を大きくし、消化活動の効率を上げるため」 と説明するだろう。
 
同じ消化管の屈曲でも軟体動物と脊椎動物では全く意味が違うと生物学者は考えるのだ。
だが、この二つはもっと深い所で繋がっていないだろうか? 消化管や巻貝の貝殻は曲がりくねる事自体に何か意味があるのではないだろうか?


前にヒンドゥー美術やゴシック建築の美意識がディオニュソス的であると書いた。
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15600491.html

もちろんこの場合のディオニュソス的とはニーチェの意味よりも拡張されている。ニーチェでは造形美術は全てアポロ的とされるからだ。僕の再定義した「ディオニュソス的」とは世界の根源的なものが矛盾を抱え、苦悩し、ペシミスティックでドロドロした混沌である、という世界観である。

その後、バッハオーフェンやノイマンを研究する中で、その恐怖を感じさせるドロドロした暗闇は本質的に母性的なものであり、ニーチェがそれをディオニュソスと結びつけたのは父権社会の観点ではないか? というのが僕の現段階の見方である。
しかし現在のほとんどの社会が父権的であるならば、このニーチェの「ディオニュソスとアポロ」も間違いではないし、文化の重要な座標軸になると考える。


この暗い原初的混沌はカオス、泥土のコロイド、シンクレティズムであり、密教的であり、そして密教の無限包容性は母性的である。それは時に不気味さを感じさせるが、それはグレートマザーの両義性から来るもので、復讐の蛇ともなれば叡智の象徴ソフィアともなる。
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15702671.html

その否定的側面はニーチェが想像した限度を遥かに超えて「カニバリズム」「残虐なエロス」の様相を呈する。実際の初期ディオニュソス教団や古代メソアメリカの供犠の例を見れば明瞭だ。
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15702904.html


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ヒンドゥー美術に現れた「ディオニュソス的エロス」についてもう少し観察してみよう。これまで気づいた事を箇条書きにすれば次の通りである。

① それが空間を細分化し、すき間なく埋め尽くそうとする衝動である事
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15600491.html
② その構図が拡散律速凝集に似ている事
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/17085802.html
③ 物理的には紙をグシャグシャにする様に「表面積を変えずに体積を小さくする」事
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15601164.html
④ その見た目の気味悪さは動物の内臓を連想させる事と関係あるらしい事
⑤ 文学ではヴェーダや大乗経典に典型的な様に「文に多くの修飾語を付けて長く曲がりくねった表現にしようとする」傾向と並行している事

しかしまだ重要な要素が欠けていた。
⑥ それは先ず不規則性を含んでいなければならない。同じ細密な分割でも雪の結晶の様なフラクタルは美しさを感ずる。
⑦ ④と関係しているが、それが閉鎖的な空間に閉じ込められた感覚を伴う事


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話しを無脊椎動物に戻すと、上に挙げた多くの傾向が動物のメタモルフォーゼに共通するのである。

先ず不規則な密集表現は繰り返しになるが動物の内臓、特に腸のイメージと重なる。

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この原点にあるのが軟体動物、その幼生のトロコフォアの消化管の屈曲である。

動物はこのグチャグチャの屈曲構造をすべすべ、ツルンとした表皮で隠そうとする。それはニーチェの言う通りディオニュソス的なものをアポロ的なもので覆っているのだ。



次にヒドラから貝類、イカ、タコまで広範囲に見られる放射相称の腕に相当するのが阿修羅やブラフマン、シヴァの
多面多臂である。

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日本の阿修羅像は三面六臂に描かれる事が多いが、僕はそれをブラフマ神やシヴァ神の神話に原型が有ると考えた。http://bashar8698.livedoor.blog/archives/16222782.html
 

それは異性に惹かれる本能の魔術的表現であり、もしかしてソーマなど麻薬による幻覚が関係している可能性もある。

千手観音の手が多数有るのもあらゆる手段を尽くして衆生を救うためと説明されるが、その魔術的デザインはカーリー神やドゥルガー神の恐ろしい姿に淵源すると僕は見ている。

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そして閉鎖的空間に閉じ込められた感覚はヒンドゥー美術に共通するが、それに相当するのが体節構造である。

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5〜10世紀のエローラ石窟寺院から10〜12世紀のカジュラーホ、12世紀のホイサレシューヴァラ、チェナケシェヴァとタントラの全盛期になるに従ってこの細密でドロドロしたエロティシズムは高度になっていく。

今後、少し他のテーマと並行してヒンドゥー美術を追ってみたい。