西洋思想史でやっと絡まった糸の2本をほどきかけたので報告しておきたい。

第一は「近代と反近代」の理念型をどこまでも貫く事である。

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市場で独占を廃し均質な主体による競争を維持する事が近代とすれば、英国での囲い込み運動は反近代、それを禁止した絶対王政の側が近代となる。
「囲い込みは大量の産業予備軍を産み出す原始的蓄積の段階だから近代化の過程」というマルクス的分析に囚われると混乱する事になるのだ。資本主義は次第に寡占へ向かう事で近代の中に反近代化の傾向を内包していると言える。

また一部の独占商人の保護は逆に反近代、それに抗した議会の独占撤廃の決議が近代と考えられる。独占商人の代表はマーチャント・アドヴェンチャラーズと東インド会社である。

絶対王制の国王と身分的特権を守ろうとする封建貴族の戦いでは権力を中央集権化しようとする国王の側が近代化、貴族の特権を守る事は反近代である。




第二点目は、英国絶対王政から市民革命、産業革命を経て竹内真人氏のいわゆる「自由主義的帝国主義」に至るまでの政治思想(制度を支える精神構造)を次の三段階にまとめる事で意味連関の一貫した理念型となる様に思う。


(1)家父長的統治の段階
(2)内戦における性悪説の段階
(3)安定した資本主義の段階

(1)の家父長的統治ではトマス・アクィナスからリチャード・フッカーまでの自然法、ロード、ボシュエの王権神授説が含まれる。この段階では中央集権化を目指す王と特権を守ろうとする中間的勢力(貴族、自治都市、ギルド、大商人)の相剋が中心となる。

家父長制はヴェーバーの様な厳密な区分ではなく、ヴェーバーの定義では長老制、家父長制、家産制を含むもの、つまり伝統的支配全体を指す。それはゲマインシャフトを目指し、宗教的権威を持つ王は慈愛をもって統治し成員は自発的に服従するのを理想とする。高教会主義はこの段階と考えられる。


(2)では統治者、被治者共に絶望的な感情が支配し、性悪説による統治論と性悪説的な反乱が対峙する。ボルケナウの性悪説の理念型はこの段階である。統治者は主権の不可分割性を主張する一方で現実においてはマキャベリズムが原則となり、反抗者側は「死ぬか生きるか」という極限状況の中で自然法より自然権を前面に出す事で封建的な支配契約説を近代的な社会契約説に転換する。反抗者は次第に中小貴族からブルジョアジーへ移って行く。自然権の内容は「信教の自由」と「生存権」に限られている。


(3)では資本主義が確立し古典派経済学による正当化も与えられ安定する段階である。ジョン・ロックやグロティウスの様に性善説的な自然法思想が復活し、自然権は人権の概念へ進化するが、そこにはいつの間にか「財産権」「相続権」などの階級的利害が滑り込み膨らまされている。ブルジョアジーは支配者側となり市民や労働者のどの階層までの利益を認めるかで争う事になる。この段階でのジェントリーのイデオロギーが広教会主義、産業資本家のイデオロギーがメソディズム、バプティズムを中心とする低教会主義と考えたら大体あてはまるように思う。


ルターの「キリスト者の自由」「奴隷的意志」「ローマ書講義」などを読んだ印象は、「家父長的傾向はルターの生来のものであり、それに対し極端な性悪説はエラスムスとの論争、及び農民戦争に反対する中で次第に鮮明になっていった」という事である。

ルターの家父長的傾向は教皇と対等に契約を結ぶ領主にのみ抵抗権と信教の自由を認めた事に現れている。

ルターの家父長的傾向は(1)の段階では保守的であるが(3)の段階では労働者の要求に合致する事になる。この社会主義的要求が本来は貴族的、保守的な要求であった事はカール・ポランニーが強調している事である。

現代でもドイツや北欧などルター派の広まった国が社会民主主義を目指す傾向を強く持っている事は注目される。これはカルヴァン派の広まった英米が新自由主義の最右翼となっているのと対照的だ。

ルターとカルヴァン本人はどちらも世俗権力に服従する事を説き、しかしその神学の信奉者の一部が国家に反抗する理論へと展開させた点で両者に違いは見られない。ただ反抗の仕方がルター派は農民戦争でありカルヴァン派は中小貴族と大商人が中核となった点が異なる。

反抗の道が閉ざされた時、ルター派は内向してドイツ観念論とロマンチック・イロニーを産み出すエネルギーとなり、フランスのユグノーは理神論から啓蒙主義、唯物論へ向かうエネルギーとなった。この辺にルターとカルヴァンの教説の階級的性格が現れている。

宗教の教説が階級的性格を持っている事はヴェーバーの宗教社会学でも展開されていて僕もいずれは記事にまとめたいと考えている。日本の仏教でも密教の貴族的性格、禅宗の武士的、士大夫的性格、日蓮宗の商人、職人的性格、浄土真宗の農民的性格など。本当はこの「教説の階級的性格」を体系的に論じないとユニテリアンの性格も論ずる事ができない。今回はアイデアだけである。