後期バッハの声楽曲の中でもその精神的深さと高みにおいて頂点に達した「マタイ受難曲」及び「ロ短調ミサ曲」をヤフーブログからこちらへ移していなかった事に気づいた。
マタイ受難曲の第一曲は
これからイエスに訪れる受難を総体的に歌っている。

 

来たれ娘たちよ、共に嘆け
見よ、(誰を?) 花婿を
彼を見よ、(どの様な?)子羊の様な
見よ、(何を?)彼の忍耐を
見よ、(どこを?)私たちの罪を
愛と慈しみ故に自ら十字架を背負われるあの姿を見よ


贖罪・・・・人間全体の罪を背負って犠牲になる神の子羊。
ここで歌われている内容はマックス・ヴェーバーの言う「苦難の神義論」そのものである。
低音でずっと継続するうなりはイエスが十字架を背負って歩く様を表していると言われる。
マタイ受難曲は僕には「原罪と贖罪」の問題を訴えている曲に聞こえる。


オリーブ山でイエスは弟子達に「今夜あなた方はみな私につまずくであろう」と予言した。
ペテロは「たとえ皆が貴方につまずいても私は決してつまずきません」と答えた。
それに対しイエスはこう予言した。
「今夜、鶏が鳴く前に貴方は3度私を知らないと言うだろう」
もちろんペテロも他の弟子も必死にそれを否定した。
しかしその後イエスが逮捕された時、弟子達は全員イエスを見捨てて逃げてしまった。


ゴルゴダの丘でのイエスの最後を看取ったのは母のマリヤとマグダラのマリヤだけだった。弟子達は皆逃げてしまったのである。弟子の裏切りの物語はさらに続く。


ペテロが大祭司の家の中庭で座っていると、一人の女中が彼を指さして「あの人もガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
ペテロはそれを否定し「貴女が何を言ってるのかわからない」と言って入口の方へ逃げた。

他の女中も「この人はナザレ人イエスと一緒だったよ」と言った。ペテロは「そんな人は知らない」と言って別の場所へ逃げた。
しかしそこでも人々が寄ってきて「あんたも彼等の仲間だな、言葉使いで分かる」と言い騒ぎ始めた。ペテロは「神に誓ってその人の事は知らない」と必死に抗弁した。

その時近くで鶏の鳴く声が聞こえた。
ペテロは「今夜、鶏が鳴く前に貴方は3度私を知らないと言うだろう」というイエスの言葉を思い出した。ペテロは泣いた。




作家の遠藤周作氏は「キリストの誕生」の中で、当時のローマの官憲の実態から弟子達が逃げのびる事は不可能だったはずだと考え、恐ろしい推測をする。

「弟子達とローマの官憲の間で何らかの裏取引があったのではないか?」(!!)

もしそうだとすると12弟子全員が裏切り者であり、全員がユダだったという事になる。
遠藤周作はキリスト教の「原罪」の観念の根源をここに見る。

ユダヤ教よりもキリスト教で遙かに強く強調される様になった「原罪」は一般にはパウロの罪の意識の反映だと考えられている。しかし遠藤氏はパウロ以前に12弟子の「最も愛し尊敬するイエスを死に追いやってしまった」というパウロよりも遙かに激しく生々しい罪の意識をそこに読み取る。

何の証拠も無い推測だが、あり得る話だと僕は思う。


原罪と贖罪の問題を予定説と関係させて考察したのがマルチン・ルターの若い頃の講義(まだ宗教改革を起こす以前のもの)である「ローマ書講義」である。ルターを読みながらマタイ受難曲を聴くのもまた一興である。