詩もマラルメ全集から引用する予定だったが、この詩に関しては全集の物は非常に難解なので比較的分かりやすい日本語に訳してある山田兼士氏の訳をお借りする。
http://baudelai.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-82c2.html



   <あらわれ>

月は悲しんでいた。熾天使たちは泣きながら

夢見ながら指に弓をはさみ、おぼろな花の静けさの中、

物憂げなヴィオルを弾いたら

白いすすり泣きが花冠の蒼穹を滑っていった。

――それはおまえが最初の接吻に祝福された日。

私の夢想は自ら苛むことを好み

哀しみの香りに賢しくも酔っていた、

その香りは後悔もなく幻滅もないまま

一つの〈夢〉の収穫が夢を摘んだ心に残したものだ。

だから私はさまよった、古びた舗道に目をやりながら、

その時、髪に陽を浴びて、街の中、

夕暮れの中、おまえは笑いながら現われたのだ、

私は見たと思った、光の帽子をかぶった妖精を、

かつて甘やかされた子どもの美しい眠りの中を

通り過ぎ、軽く握った手からいつも

芳しい星の白い花束を雪と降らせたあの妖精を。





情景は青字の部分の悲しい青い月、天使の奏でる咽び泣くようなメロディーから赤字の部分の夕陽に輝く髪、妖精の微笑みへと急転回する。その二つの情景を繋ぐ5〜10行目は転回の理由を説明する心理的過程となっている。

全集の解説によれば「白」と「湿った」「涙」などが連想的に繋がるらしい。それは月にかかる雲や霧を表している。その雲の途切れ途切れの様が忍び泣くメロディーの息絶え絶えの調子に、さらに天使の夢見心地の朧ろさに繋がる。

マラルメは事物を朧げに見せる霧を愛した。友人のカザリスに宛てた手紙で彼はこう語る。「霧がない時、僕はロンドンが嫌いだ。霧の中にあってこそ、ロンドンは比類ない都会なんだ。」この手紙を書いたのが1863年、この詩を書いたのも同じ年と推定されている。

熾天使は最高位の天使セラフィームである。本来は6枚の翼を持ち燃えていると伝えられる恐れ多い存在であるセラフィームがここでは咽び泣きながらヴィオラを弾いているのは欧米人にとっては意外な光景かもしれない。何故マラルメは親しみのある芸術神ミューズではなく恐れ多いセラフィームにしたのか? これは疑問として残しておきたい。

その哀しいメロディーは夜空に立ち昇る青い花弁の上を滑っていく。この花は最後に妖精の両手から降る星の白い花束と同じだ。マラルメの象徴体系では詩の言葉がよく花、特に薔薇の花に比せられるそうだ。

音が花弁の上を滑るのは弓が弦の上を滑ることを連想させる。「詩は最高の音楽だ」というのがマラルメの持論だ。メロッツォ・ダ・フォルリの「奏楽の天使」を思い出す。

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この絵ではヴィオラではなくリュートだが天使の悲しそうな目が詩の情景と近い。


しかし5行目を読むとこれは初めて彼女(恐らく妻のマリー・ジェラール)とキスした幸せな日の事だ。それなのに何故前半は悲しい調子なのか?

一番単純な解釈は前半は彼女と出逢う前の心境、後半は出逢ってからの心境を表しているというものである。しかしそれでは「それはおまえが最初の接吻に祝福された日」の一文が入るタイミングが合わないし、「哀しみの香りに賢しくも酔っていた」の意味も分からなくなる。

「夢を収穫した」結果「哀しみの香り」が心に残ったのだ。そしてマラルメはその哀しみの香りに酔ったのである。「恋愛を哀しいものと捉える感覚」これはアンドレ・ジイドの「狭き門」を連想させる。ジェロームとアリサは天上の清らかな愛に憧れ、それ故に現実の恋愛を破綻させる。「天上の清らかさへの憧れ」は裏を返せば「悲劇のヒーロー、ヒロインになりたい」という心理と裏表かもしれない。

あまりに美しい純粋な恋愛はそれだけで悲しい調子を帯びる。例えばこの曲もそんな調子を表現したものと僕には感じられる。



天上的なものへの強い希求が現実には不幸を呼び起こす。もちろん全ての場合がそうではないが、有りがちな事であり、マラルメはその天上的世界への憧れと詩的世界への憧れを少年時代から持っており、青年になるにつれその二つはますます重ねられていったようだ。

ところが後半ではそんな天上と地上の葛藤は消滅している。二つが両立する世界を彼女が教えてくれたのだ。
後半の情景はまるで一目惚れした衝撃の様な書き方だ。しかし初めて出逢ってまさかその場でキスはしないだろうから(笑)これは現実の時間ではなく象徴の時間で書いているのだ。

象徴の世界であれば前半が前で後半が後と考える必要もない。実際前半はキスをした後の夢という解釈もある。

どちらが自然かはフランス語に熟達した者にしか分からないだろう。いずれにせよ前半と後半で二つの世界が提示されているという事だ。今後マラルメの世界への理解が深まるにつれてもう一度この天上と地上、詩的言語と日常言語の対立について考える事になるだろうが、それは他の詩、散文を読んでからにしよう。今は「狭き門」的解釈にとどめておく。