<青空>

永遠の<青空>の 晴々として朗らかな皮肉が
もろもろの花のように 無心に ただ美しく、
<苦悩>の不毛な砂漠を過ぎりながら われとわが
天分を呪っている無力な詩人を 圧倒する。


逃げながら 目を閉じていても、青空が私の虚な魂を、
打倒さんばかり 悔恨が苛む烈しさで見据えているのを
私は感じる。どこへ逃げよう、そしてまた どんな狂暴な夜を
千切っては この胸を抉るような侮辱の上に投げつけてくれよう。


霧よ立ち昇れ! お前の一面むらのない灰の粉を、
霞のたなびく襤褸布と共に空に注げ。いずれは
秋の鈍色の沼が その影を映して溺れさせるその空に。
そして、黙っていてくれる宏大な天井を造り上げよ!


それからお前、親愛なる<倦怠>よ、忘却の河の沼沢を出て、
来がてらに 水底の泥土と蒼白い葦とを拾い集めよ、
永久に疲れを知らぬ手で以って、鳥たちが悪意をこめて
穿ってあけた碧瑠璃の大きな穴を 塞ぐために。


さらに又! 休むことなく、陰にくすんだ煙突どもが
煙を吐いて、煤煙でできた宙にただよう牢獄が
その黒くたなびく条のもたらす恐怖の中に、地平の彼方
黄ばみつつ死にかけている太陽を消し去ってくれるように!


──<空>は死んだ───お前の方へと私は駆け寄る! おお物質よ、
忘却を与えよ、人間という幸せな家畜どもが横たわる
寝藁を共に分かつべくやって来た 絶えず苦しむこの私に、
残酷なる<理想>を また<罪障>を 忘れさせよ。


というのも、結局私の脳味噌が、壁際に転がっている
白粉瓶のように 中身は空っぽ、いくら泣き噦られても
詩想(イデー)を飾り立ててやる術ももはや持ってはいないのだから、
お先真暗の死に向かって愁傷顔に 寝床で欠伸をしていたいからだ・・・・
 

そう希ってもむだだ! <青空>が圧勝する、そして鐘の中で
青空の歌うのを私は聞く。私の魂よ、意地悪な勝鬨(かちどき)でもって
青空は 私たちをさらに怖がらせてやろうと 身を声と化して
活気に溢れる金属から青い色の御告げの鐘となって飛び出してくる!


それは昔さながらに霧のさなかを鳴り渡り、狂いのない
短剣のように 私の魂の生まれついての苦悩を刺し通す。
無益な、悪ぶった反抗をつづけて、何処へのがれよう、
私がとり憑かれているのだ。<青空>! <青空>! <青空>! <青空>!



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マラルメは青空を恐れている。青空は彼を監視しているからだ。その視線はマラルメの苦悩を短剣の様に刺し通すからだ。マラルメの苦悩とは何か? 彼の無力さ、天分の無さだ。
むしろ霧や霞で遮られた空に彼は安心できる。(マラルメが霧を愛した事は前回書いた通りだ)遮る物の無い青空はかえってその超絶的な遠さを見せつける、それ故に怖いのである。

この青空は他の訳では「蒼穹」と訳されている事が多い。これは単なる空ではなく海、空、全ての自然の背後にある究極の何かである。マラルメが敬虔なクリスチャンだったら神と表現するところだが、彼は子供時代に司祭に憧れる素質は有ったものの成人後は強い信仰は持っていなかったようだ。ポーの詩論に大きく影響されている割にはポーの様なカトリックではないし、汎神論と悪魔の間で苦しみ続けたボードレールに比べてもマラルメは無神論的である。


「あらわれ」の次にこの詩を選んだのはマラルメ自身がこの詩の意味を(或る一点を除いて)友人のカザリスに詳細に語っている手紙が有るからだ。それに従って読み込んでみたい。

最も表面的な読み方としては「マラルメは自分の詩作の能力の無さに絶望している」という読み方がある。しかしこれはマラルメの手紙によってはっきりと否定される。

>この詩は実に多くの苦しみを与えた。なぜならば、絶えず頭に憑きまとう無数の抒情的なとりつき易い言葉と美辞麗句を斥けながら、僕は執念深く自分の主題の中にとどまっていようとしたからだ。誓って言うが、ここには一語として、僕に数時間の探求を支払わせなかったような言葉はない。そして、第一の観念を表現している第一番目の語も、それ自身、詩全体としての効果を目的としているほかに、さらに、最後の語を準備する役も果たしているのだ。一つの不協和音もなく、たとい尊ぶべきものであろうと、ひとを楽しませる一つの装飾音もなく産み出される効果 ── これこそ僕が求めているものなのだ。── これらの詩句は、僕自身、おそらく二百回も読んでみたから、この面での出来栄えには確信がある。


彼は生みの苦しみにも拘らず、それ故に装飾を削った言葉の凝縮性とその効果に自信を持っているのだ。では「苦悩の不毛な砂漠」とは何だろう? 苦しみながらも自信作を作れたのなら「不毛」でも「無力」でもないではないか?

もっと不思議なのは何故彼は青空が怖いのか? 何故逃走する必要があるのか? いや詩を作っているのだから逃走していないではないか? という疑問である。彼は実に上手くこの最も肝心な点の説明を手紙の中でも避けているのだ。

詩作の出来栄えには自信を持っていた彼が逃げたくなるほど恐れ、自分の無力に打ちのめされた理由は何か?
どうやらマラルメを理解する鍵はこの辺にありそうだ。