ヤン・マテイコの描いた宮廷道化師
下の詩は「懲らされ道化」と題された詩の初稿である。マラルメはこれが「下手な詩」と考えかなり表現を変えた。しかし初稿の方が分かり易い詩になっている。
彼女の眼のために、–––岸辺には美しい睫毛が生え
そこに青い朝のしみとおっている この湖で泳ぐために
ミューズよ、–––あなたのしがない道化たる私は、–––窓を踏み越え
ケンケランプの煤たてるわれらが芝居小屋を逃げ出した。
夏の香に酔い、私は裏切者としてこの禁断の湖に
飛び込んだ。あなたが私を呼んだ時、
ぶなの幹に道化の衣装を懸けたことも忘れ、
白い小石の見える波に裸の手足を浸していた。
朝日が私の新しくなった身体を乾かし、
あなたの圧制を遠く逃れた私は、清楚となった肉体に
氷河の雪の清涼を感じていたのだった。
髪の油や肌白粉が水にのって流れ去った時、
ああ、ミューズよ、この垢の類こそ
私の天分の全てだとは露知らずにいたのだ!
ここにも「禁断の青」「圧制からの逃走」「自分の天分の無さへの自嘲」「裏切りという罪の自覚」など他の初期の詩と共通するモチーフが揃っている。そして初めに紹介した散文詩「未来の現象」に登場する見世物小屋も・・・・
マラルメはミューズのしがない道化であり、ミューズ(芸術の創造)の圧制を逃れて小屋を抜け出し禁断の湖に飛び込んだ。青い湖はマリー・ジェラールの眼であり、そこは雪の様な透明な清楚な世界である。この透明さは精神的危機を経た後には、ドロドロした現実生活から超越した、無機的な言葉の煌めきとして鉱物の様に結晶化していくものである。
第一段落は推敲された後、最終的にはこんな言葉に変えられている。
眼だ、湖さ、ならば生まれ変わるぞと手もなくのぼせあがり、
ケンケランプの汚い煤を 羽飾りだとばかり
身振りよろしく表現してきた道化の俺としたことが
テントの壁に窓をひとつ ぶすりとあけてやった。
これまでの自分の表現が「道化」 でしかなかったと気づいたのだ。これまでの表現とは? この点の解釈がこの詩の要であり、初期マラルメの要にもなりそうだ。
筑摩書房のマラルメ全集ではこんな解釈をしている。
>偶然にも不完全な所与である一部族の言語を唯一の道具として世の御機嫌をとり結ぶことになったわれとわが職務に嫌気がさして、ひたすら純粋な美を体現すべく「不完全な所与」など洗い流して裸形となった、と思い込んだ瞬間に、気がつくと、己は道化=詩人ですらなくなっていた(全集1 別冊 p.33)
フランス語という制約を越えて純粋な美を求めた結果、詩作の根拠を失ってしまったという事である。しかしこの説明はどうも抽象的過ぎて僕には分かりにくい。
前回あげた山中哲夫氏の論考でも似たような説明である。https (p.6)
即ち、逃走は透明で純粋な「非在」へと侵入する事であり、生身の肉体を持った人間には本来不可能な「禁断の湖」である。それはミューズへの反逆である故に懲罰を受ける。懲罰とは衣装=詩人の言葉を失った事に気づく事である。これもやはり分かりにくい。
この辺の最も微妙で最も重大なマラルメの「裏切り」「逃走」に関わる精神的危機の性質を複数の研究者の論考で読んでみたが、僕に納得できるものは一つも無かった。だからここで僕の直感で飛躍してみよう。
初期のマラルメの詩風はボードレールの後を追い、ボードレールの作風に近づく事であった。そのために時には背伸びしている様に感ずるのも前回書いた。
しかし次第にマラルメは「自分はボードレールにはなれない」という事に気づくのである。それはマラルメが現実の人生においてボードレールのような波乱に満ちた人生を送っていないからである。
マラルメの実生活は比較的平穏で堅実なものである。詩人になるために先ず現実の生活手段として英語教師を目指しそのためにイギリスへ留学するというあたりにも堅実さが現れている。ボードレールやランボーの様な破れかぶれの人生ではなかった。もちろん内面的には親しい者の相次ぐ死や母親の不在から来る葛藤や20代での精神的危機もあっただろうが、それらはマラルメ自身の実生活からは切り離されている。
「自分はボードレールにはなれない」事に気づき、詩作の根拠を見失った事、これがマラルメの「精神的危機」の核心だったと仮定してみよう。このアイデアに沿って再び彼の詩を吟味する。
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