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上の絵はブグローの「ニンフと牧神」である。ニンフはギリシャの自然の美しさを象徴する女神たちで全裸の若い女性で表される事が多い。

古代ギリシャ人にとって自然は地中海の温和な気候、牧畜とブドウ畑に溢れる豊かな自然であり、アラブや北欧の様な激しく厳しい自然ではなく、若い女性の様に美しい自然だった。


牧神パーンはヘルメスと羊飼いの少女の間に生まれた半獣神で、上半身が人間、下半身は山羊の形であご髭をはやしている。後にパーンはサチュロスと混同されるようになった。

パーンは下半身が獣で表される様に好色で、シリンクスと呼ばれる笛でニンフを誘惑し戯れるのが好きだった。アルカディアの森で家畜の番をして暮らしながら夏の暑い午後にはよく昼寝をしたと言う。


マラルメの「牧神の午後」
も同じニンフと牧神の戯れを描いた詩だステファヌ・マラルメはボードレールの後継者を自認するフランス象徴主義の代表的詩人である。 彼の詩は非常に音楽的であるとされ、和訳では本当のマラルメの素晴らしさは分からないと言われる。しかし詩の持つ雰囲気くらいは味わうために読んでみよう。





あのニンフたちを永遠に奪いたい!
夢とも現実ともつかぬ空間で 
彼女らの軽やかな肌の色が 
なんと鮮明に宙に舞っていることか! 


おれが愛したのは夢だったのか? 

古代から蓄積されたおれの疑問は 
いまや多くの小枝と化し 
しかしこの枝の集積が

本物の森であることには違いなく 
いままで自分が勝ち誇ったように

抱いていた薔薇についての考えが 
まったく一人よがりの

間違ったものだったことがよく解る


熟考せよ! 

おまえが非難する女性たちこそ 
おまえの架空の官能が

願ってやまなかったものの 
実現された姿ではないのか? 
あの幻影は、あのいとも清らかな

女の青く冷たい目から 
まるで涙の泉のように流れ出たものだ 




ではもう一人の

ため息ばかりついている女のほうは 
おまえの羊毛をかすめる

真昼の風のように
まったく違った種類の女なのか 
いやいや、そんなはずはない 



爽やかな朝の大気を圧迫するような 
不動の、けだるさに意識が薄らぐ

この暑さのもとでは 
水の囁きすら聞こえない
聞こえるのはただ

自分の笛が木立に注ぎかける調べだけだ
 

おれが笛に吹きこめる一陣の風は 
二つの管から出て

乾いた雨の様に音を撒き散らす前に 
早くも空へと消えてゆく 



その風は
皺ひとつ動かない地平線に 

目にみえる、晴れやかな人工の息吹

霊感の息吹となって 
空へと立ち昇ってゆく 



おれの虚ろな心が太陽と張りあって

荒らしまわった静かな沼沢の地 
火花が花のように舞い落ちる下で

もの言わぬシチリアの岸辺よ 
さあ、思い出を語ってくれ 




おれはここで、たくみの手によって馴らされたうつろな葦を折っていた。そのとき、はるか彼方、金色に照り映えた緑草が葡萄の蔓を泉に捧げているあたりに、なにやら白いものの姿が憩っているのがゆらゆらと見えた。この一群の白鳥、ではなくてナイヤードは、できたばかりの葦笛から流れ出すゆるやかな序奏に驚いたのか、いきなり立ちあがると、あるものは逃げ出し、あるものは水のなかへ飛び込んだ。……



なにも動かない 
獣くさい時間の中で、

あたり一面うだるような暑さだ 
あれほど多くの処女が 
いったいどういう魔法を使って

いっせいに逃げ出したのかを
示してくれるものは何もない
俺はただ、笛でラの音を求めながら
彼女らを一途に望んでいたのに 



もしかしたらあの時
俺は最初の情欲に

目覚めつつあったのかもしれない
昔ながらの陽光が降りしきる下で
ただ一本、あられもなく立ち上がった

これは百合の花だ!
あけすけなことにかけては

どんな百合の花にも劣らない

彼女らの唇によって明かされた

甘美な秘め事 
不実な恋人たちの心を

密かに捉えて離さない接吻の快楽 
純真なおれの胸は
何かしら威厳あるものの歯にかまれ
微妙な傷を負ったような痛みを

はっきりと覚えた。


しかし、それが何だ!
青空の下で吹き鳴らす太い葦笛こそ
このような秘め事の友として

選ばれたものではないか
頬をふくらませて笛を吹けば
笛は頬の痛みをわが身に引き受け
長い独奏のうちに

吹くものを夢見心地へといざなう 


思えばおれたちは

周辺的な美というものを
ずいぶん甘やかしていた 
うかつにも美それ自体と

おれたちの気軽な歌とを
混同していたからだ


またこの夢見心地は
おれが目を閉じて追い求める
ニンフの背中だの脇腹だのといった

平凡な妄想から
騒々しく無益で単調な輪郭を

消し去ってくれる 


それはほとんど愛というものの性質が

変わってしまうほどの高みだ 
だから逃避の楽器よ

いたずらものの葦笛の精シランクスよ
もう一度あの湖で若々しい花を咲かせ

おれを待っていてくれ
自分の評判が自慢のおれは

女神たちについて長々と語ろう
そして偶像のように熱愛する

彼女らを絵に描いて
その影像から帯までも

すっぱり剥ぎとってみせよう。


さて、快活なふりをして抑圧していた

未練の情を払いのけるため 
光に輝く葡萄をすすっていると

思わず笑いがこみあげてきて
おれは空になった葡萄の房を

天に差しあげ
酔いたい一心で

そのきらきらした皮に息を吹きかけ
夜になるまで見続ける
ああ、ニンフたちよ
もう一度あの「思い出」で

体を満たそうではないか 



おれが葦の茂みを透かして、ニンフたちの不滅の肉体に矢のようなまなざしを投げかけると、彼女らは火傷でも負ったかのように波に飛びこんで、森の空に怒りの叫びをあげた。水面に漂うみごとな髪が光とざわめきのうちに沈んでいくさまは、まるで宝石をぶちまけたかのようだ。おれはあわてて駆け寄った。
と、足もとに、二人の眠る女が(女どうしの秘密を楽しんだあげく、疲れに息も絶えだえになって)、大胆にも互いに腕を絡ませたまま横たわっていた。おれは二人を抱きあったままの姿でひっさらって、乏しい木蔭しかない、日に焼けてからからに乾燥した香りを放つ薔薇の茂みへ飛ぶように走った。そこでおれたちが繰りひろげた痴態は、燃え尽きた太陽にも喩えられようか



おれはあの処女らの憤りを愛する 
ああ、聖なる裸のお荷物の

なんと猛々しい至福であることか 


二人の女は身をすべらせて 
肉の秘密のおののきを 
まるで電光がひらめくように
呑みつくしてしまおうとするおれの

熱い火のような唇を避けようとする
子供らしい気持ちから

いちどきに突き放された二人は 
狂乱の涙か、あるいは

涙ほどには悲しくない体液の滲出で 
つれない女の足から

おずおずしたもう一人の
女の胸のあたりまで 
しとどに濡れて




おれの罪は、女たちの思いがけない恐怖心を打ち負かしてやろうとみだらな気持ちになり、神々によってしっかりと縺れあわされた密集した陰毛をかきわけて、そこに接吻したことだ。というのも、ひとりの女のけっこうな肉体の襞のしたに痴れ笑いを隠そうとするやいなや(そのときおれは、小さいほうの、無邪気で顔さえ赤らめない女を指一本で支えて、彼女の羽毛のような純真さが、体をほてらせた姉の心の動揺に染まっていくことを期待していたのだが)、この漠とした仮死状態にぐったりとなったおれの腕を振り払って、あのどこまでも不実な二人の獲物は、おれの嘆きには目もくれず逃げ去ってしまったからだ。おれはしばらくその嘆きに酔ったようになっていた



残念だが仕方がない
あの至福の境地へは

ほかの女が連れていってくれるだろう
その編んだ髪をおれの額の角に結びつけて 

しかし、わが情熱よ、

おまえは知っている 

どの柘榴もすでに真っ赤に熟れて 
その笑み割れた実のまわりには

蜂がぶんぶん唸っていることを 
そしておれたちの血潮は

それを吸い取ろうとするものに恋いこがれ
永遠の蜂の群れのような

欲望のために流れ出すのだ 


森が西日を浴びて

金色や灰色に染まりだすころ 
色の消えた葉の茂みでは

祭りの気分が高まってくる 


エトナよ、その祭が催されるのは

おまえのところだ 
悲しい眠りがとどろくとき

また炎が燃えつきるとき 
美の神ヴィーナスが訪れて
あどけない踵で

溶岩を踏みしめるという火山よ 
おれはその女王を抱きしめる! 



ああ、なんと確実な懲罰だろう……

いや、そればかりか

空っぽになった言霊も
重く疲れたわが身も 
ついには真昼の誇らしげな沈黙に

打ち負かされてしまう 
このまま、涜神の言葉も忘れ 
渇を癒されないまま
砂の上に寝そべって
眠り込むのがいちばんだ 

葡萄酒に効きめのある

あの星(=太陽)に向かって
ぽかんと口を開けているのは

なんと気持ちがいいことか 


さよなら、つがいのニンフたち 
おれは影となったおまえたち
二人の姿を

夢に見ることにしよう




このエロティックで幻想的な詩はマラルメの、いや近代フランス詩の最高傑作であるとさえ言われる。
これは多くの画家や音楽家のイマジネーションを刺激したが、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は最も有名である。 フルートがパーンのエロティックなメロディーを奏で始めると、ピアノのアルペジオが幕を開けるようにアルカディアの森に隠された幻想を開示していく。 パーンの笛と森の幻想は絡み合いながら次々と情景を変え、森の自然は次第に美しいニンフたちの姿へ変貌していく。ドビュッシーならではの表現だ。 美しいマラルメの詩とドビュッシーの音楽を堪能していただきたい。