エスター・ハーディングは初期の月神の表現として石柱(鉱物)、月の木(植物)、月の動物を考察する。女神と植物、動物の関係、その象徴的意味については既にノイマンの説を検討した。http  http  http   当然ハーディングとノイマンの説を比較する事になる。

ノイマンによれば野獣を飼いならす女神は狩猟文化のものでありトーテムや供犠と深く関係している。
トーテムは女神を妊娠させるものである。蛇、鳥、牛などヌミナスな動物との接触、特定の果実を食べる事、風、月、先祖の霊、神や悪魔などである。


神と動物が一体化しているトーテムと野獣を調教する女神は本質的に同じだが、霊的な核としての自己(Self)と身体の分離のレベルの差が現れている。

ノイマンは自己と身体の分離の段階を次の様に整理している。
① 自己が自然の身体に埋没し大自然の法則に任せている植物象徴

② 無意識でありながら目的を持って半分統御されている動物象徴
③ 自己も大自然も同様に意識的に支配しようとする父権的段階

ノイマン説は動物象徴が植物象徴より発達した自我の段階にあり、どちらも狩猟採集経済のものと主張するが、これとは別に「植物象徴は農耕、動物象徴は狩猟に関係する」という単純な観念もまた否定できないと思われる。もちろん動物の中でも蛇などは水田耕作と関係すると見られるものも有るが、牛などは明らかに牧畜と関係するだろう。この辺は近い内にノイマンの「意識の起源史」を読んで彼の見解を確かめたい。


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これに対しエスター・ハーディングでは植物も動物も月の女神の一側面であり、ノイマンほど明確に自我の発達段階と対応させるというアイデアは無い。しかし一応表現形式としての段階を考えている。


(1)先ず原始的には単なる石柱として表現される。

最も古い象徴は円錐または円柱の石である。次にこれが三日月や満月に加工される。石に隕石が使われる事もあり「空から落ちて来た」という事が神聖さを保証する事となる。

石柱の例として挙げられるのはキプロス島のパフォスやレバノンのビブロスのアスタルテ像、トルコ南部にあったパンフィリアのベルゲのアルテミス像などである。

円柱ではなくただの黒石の場合もある。
ガラテアのペシヌスには黒い石がキュベレー神として崇拝され、後にローマに移された。
メッカのカーバ神殿の黒石はイスラム教以前には月の女神とされていた。

それらがヘルメス柱像のファロス(男根)形とは別の歴史を持ち、ファロスが三角形や矢が描かれる様に月の女神の柱は三日月や女陰と共に描かれると言う。ハーディングは月の女神の母性的側面を表す杯や聖杯に対し、三日月は女陰と共に月の女神の性的側面を表すと考える。しかしその理由は今のところ示されていない。


(2)次に月の女神は「聖なる月の木」として描かれる。これは特にアッシリアに例が多い。
その特徴としては三日月の他、松明(6図、8図)や果物(7図)で覆われる事が挙げられる。
  
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ハーディングの推測では聖なる月の木は社に納められたり周りを柵で囲んで聖別され、特定の日、場面で光や様々な色の葉や花や実で飾られ、周りでダンスを踊る場所だった。実については聖書で分離している「知恵の木の実」と「生命の木の実」が合体した役割だったと言う。


(3)月の木の頭が切り取られ、或いは伐採される事が神の死を象徴する事がある。その例としてオシリス、ディアナ、アッティス、また中東からインドまで広く見られる「ワク=ワクの木」が挙げられる。これらについて簡単に説明すると、

 🔴 オシリスはエジプトの植物の神だったが、弟のセトの奸計により生きながら棺に入れられナイル川に流されて死ぬ。棺はオシリスを入れたまま枝の切り取られた木の幹に隠された。

 🔴 ディアナはローマ神話の女神だが、オレステスがクリミアの王を殺してイタリアへ逃亡する時、クリミアのディアナ像を薪の束に隠してイタリアへ持ち込んだのが起源と言われる。

 🔴 アッティスの神話はまさに伐採と神の死の関係を典型的に示している。アッティスはキュベレーの息子にして愛人だったが、或る時若いニンフと恋をした。嫉妬に狂ったキュベレーはアッティスを発狂させ、自分で去勢させる。死んだアッティスは常緑樹の松の木に生まれ変わった。ハーディングの指摘ではさらにアッティス信仰の儀礼で松の木が切り倒され枝も切り取られ、死んだアッティスがその幹に縛り付けられる。「木は息子を抱き納める母の象徴でもあり、またその抱擁によって去勢され殺される息子自身の象徴でもある。」

 🔴 ワクワクの木は伝説では人間の首の実がなる半人半植物である。熟すと地に落ち、その後は一週間しか生きられない。死ぬ時に「ワクワク」という言葉を発すると言う。タイでは「マカリーポン」或いは「ナリーポン」と呼ばれ、シンブリーの寺院にはそのミイラがあると言う。
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(4)月の女神に仕える動物が描かれる事もあり、アッシリアでは翼を持つライオンと一角獣が多い。
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月の女神の起源を遡るほど動物的概念に近づくとハーディングは指摘する。その例は

🔴 ヘカテーは冥府の神で三つの頭を持つ犬ケルベロスがその冥府の門を護っているがハーディングは太古にはヘカテー自身が三つの頭の月の犬だったと言う。
🔴 アルテミスは熊
🔴 イシスはハトホルと同じで牛の女神
🔴 キュベレーはライオン
🔴 オシリスの霊は雄牛のアピス

ハーディングは動物象徴と植物象徴の間に意識の段階を想定しない代わりに「女神が動物そのものである」段階と「女神が動物に仕えられる」段階、さらに「その動物が人間に置き換えられる」段階にはノイマンの様な「意識の段階」を考える。

原初の月の女神が動物そのものであるのは未開の原始社会では女性的本能が、子供に対する世話の面でも交尾期の雄に対する欲望の面でも全く動物的なものとして知覚されたからだと言う。そして文明が進むにつれ「愛」という情緒に近づくが、原初の動物性は無意識の中に潜んでいるだけだ、というのがハーディングの解釈である。

(何だかフェミニズムっぽくないな 笑)


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ここから牛、ライオン、ウサギ、鳥、蛇など具体的な動物の意味についての考察に移っていくのだが、その前に僕はこれまで詳細に検討してきたシュタイナーの体系とハーディング、ノイマンのユング派的体系が矛盾しないのか?と問わざるを得ない。アカデミックな神話学者ならユング派神話学とシュタイナーを比較するなどという発想自体が馬鹿げたものと考えるだろう。しかし神秘主義者にとっては避けて通れない問題だ。


僕は以前シュタイナーの説をヘッケルに即して土星紀を岩石の意識、太陽紀を植物の意識、月紀を感情を持たない動物の意識として読み込んだ。もちろんこれは我流ではなくシュタイナーの宇宙進化論は明らかにヘッケルの影響を大きく受けているし、シュタイナー自身がそれを示唆する記述をしているのである。少し例を挙げておこうか。

太陽紀
🔴 その状態は現在の人間が全く夢の無い眠りに陥っている時の状態にほぼ等しい。
🔴 現在の植物界が微睡んでいる低次の意識度にも比較できる。(神秘学概論)

🔴エーテル体に貫かれた物質は今日、植物が太陽光線に対して行うのと同じ事をしていました。
🔴人間の身体は太陽紀において植物状態にあったのです。
🔴土星紀の領域は、太陽紀に一種の植物存在へと進化しました。(薔薇十字会の神智学)

月紀
🔴人間存在の働きは、太陽紀にはまだ植物的でしかなかったが、その働きが今や感覚体験を持つようになり、快、不快がこの体験の中で感じられるようになる。(神秘学概論)
🔴この意識は今日の人間が持つ夢の形象意識に名残をとどめています。
🔴月紀におけるアストラル体の肉体への働きかけによって、神経組織の萌芽が生じました。(薔薇十字会の神智学)

これらの記述から僕はシュタイナーの宇宙進化論を単純化して
土星紀=無機物の精神
太陽紀=植物の精神
月紀=下等な動物の精神

として考察してきたのである。

太陽紀が植物、月紀が動物と関係づけられる体系は僕にとってずっと疑問だったが、生物学の研究をする内に「植物の生命サイクルが成長から養分の吸収、呼吸までほとんど太陽の周期に依存している事」それに対し「動物、特に海棲動物の生殖が月の周期に依存する事」に気づき、改めてシュタイナーの奥の深さを確認した。

しかしこの太陽と植物、月と動物の深い関係は僕の「太陽と月と大地のメタファー」と矛盾するのではないか? いや実は矛盾しないのである。

僕の体系で太陽が理性と関係づけられるのは太陽光が直線的性格を持ち、混沌から純粋物を結晶化する鉱物結晶を媒介としてなのだ。そしてこの鉱物の無機的世界と共振するのが植物なのである。
理性と鉱物結晶の相似象というアイデアを通る事でシュタイナーの宇宙論と僕の「太陽と月と大地のメタファー」は繋がる事ができる。そしてシュタイナー自身も「塩の結晶と動物的高度化の関係」を指摘している。http
それは植物と動物の間にある逆転現象の一つの現れなのだ。


それではノイマンやハーディングとシュタイナーの間は矛盾は無いだろうか? ノイマンの植物象徴から動物象徴への移行は「自然からの自我の独立」の発展段階であり、これも「太陽紀から月紀へ」というシュタイナーの進化論と矛盾しない。両者に共通するのは自然に埋没する(或いは自然と直接共振する)植物、それに対し体内に裏返しの内的自然を作る事で自然から独立しようとする動物、という対立図式である。ただ、これらを「動物は植物より理性的」という世間の常識的理解を重ねてイメージすると両者は対立する事になる。

植物と動物の間は連続した発展ではない。一度は身体が裏返しになって自然に反逆、敵対して「窓の無いモナド」となり、次に高度な動物では「理性」という「鉱物的な性質」を復活させる事で二重に断絶しているのである。


今のところこの様に考えておこう。また新しい矛盾が出てきたらまた考え直せば良いだろう。