カテゴリ: 🔵 東洋美術

尾形希和子氏の「教会の怪物たち」を慎重に検討してきたが、残念ながらタントラ美術の「ディオニュソス的エロス」の解明にはあまり役立たないと結論するに到った。尾形氏の書から「怪物の源泉」を辿れば次の様なものに辿り着く。聖職者が抑圧しようとした性欲民衆の中に残る ...

10日も間が開いてしまった。実はこの間、間違えてスマホを壊してしまってバタバタしていたのである。(笑)これまで分かったのは次の繋がりである。ドラヴィダ様式・・・聖典シヴァ派・・・サーンキャ的二元論・・・プルシャの傍観者性アーリア様式・・・カシミール・シヴァ ...

<神学的問題 聖典シヴァ派のmala>前に書いた様にシヴァ派ではカルマだけが個我の汚れではなくより根源的汚れとしてmalaを考えるが、聖典シヴァ派ではmalaが物質性のものである事が強調される。これは不浄は全てプラクルティの開展からくるというサーンキャ説の継承である ...

だいぶ頭が混乱して暗礁に乗り上げていたのだが(笑)分かった事から書いていこうと思う。4世紀にサーンキャを集大成したイーシュヴァラクリシュナは二元論、ヴェーダーンタを完成した8世紀のシャンカラは一元論(不二一元論と呼ばれる)、同じヴェーダーンタでもヴィシュ ...

シヴァ派の根本聖典はアーガマと呼ばれ多くが紛失しているが28のアーガマのリストが記録されている。前回の表に書いた様に聖典シヴァ派は二元論的、カシミール・シヴァ派は一元論的という違いがあるが、根本アーガマに依拠する点では共通している。シヴァ派の二元論と一元論 ...

まずは分かりやすいようにシヴァ派の簡単な系統図を示すと、 パシュパタ派は最も初期に成立したシヴァ派の原型であり、その理論的影響は全てのシヴァ派に及んでいる。個我(アートマン)は本来はシヴァ神と等しい能力を持つが、三重の束縛(パーシャ)に覆われているため能 ...

カジュラーホ寺院群のエロティックなミトゥナ像はあくまでも宗教的表現である。それは正統派のヴェーダ研究から異端視されていたシャクティ崇拝、ナータ崇拝などの流れが次第にタントラとしてヒンドゥー教の正統派になっていった過程と並行している。タントラの聖典の多くは ...

ドラヴィダ様式の直線的な傾斜と神像の無い幾何学的なデザインはインドの仏教寺院に共通するものがある。多くの寺院を見るほどドラヴィダ様式と仏教様式は「タントラ的な要素」の欠如している事がはっきりしてくると思う。ヨーガはドラヴィダ文化がルーツだが、タントラ的、 ...

南方のドラヴィダ式と北方のインド・アーリア式の対照にもう少し注目してみよう。エローラ第16窟のカイラーサナータ寺院とマハーバリプラムの海岸寺院はほぼ同時代の8世紀の建造物だ。エローラではこの方の素晴らしい資料を参考にさせてもらう。https://www.abaxjp.com/ind0 ...

マハーバリプラムは南インドの都市チェンナイ(旧マドラス)の南60kmに位置する。今では小村だが、4〜9世紀のパッラヴァ王朝時代には首都のカーンチープラムに次ぐ重要な都市で、海港都市として栄え多くの寺院が建造された。ヒンドゥー建築は① アジャンター式に岩壁を横に掘 ...

アジャンター石窟寺院は中国の敦煌や雲岡と同様、切り立った崖に穴を掘ったものである。それに対しエローラ石窟寺院の第16窟、カイラーサナータ寺院は玄武岩の山を露天掘りの要領で下へ下へと削り取り寺院を掘り出してしまったという驚異の建造物だ。写真はこちらからお借り ...

ヤフーブログの「法隆寺金堂壁画とアジャンター石窟寺院」の記事はかなり閲覧者が多かったのだが、こちらへ移すのを躊躇ってきた。https://blogs.yahoo.co.jp/bashar8698/37729203.htmlそれは「グプタ様式は密教ではない」という批判があるのを意識しての事である。僕は密教 ...

実はこの間、ヒドラやイソギンチャクの触手、軟体動物のU字に屈曲した消化管、節足動物の体節構造などを研究する間、「これはタントラ的だ」 という観念がずっと頭から離れなかったのである。生物学者は消化管の屈曲は固着生活に対応するためだと言う。それは正しいかもしれ ...

天照大神の天の岩戸事件はギリシャ神話のデメテルとの類似性が指摘される。http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15603896.htmlデメテルは大地母神、天照大神は太陽神だが、女性性を侮辱された事への怒り、悲しみで隠棲し、その結果農業が壊滅する。インド神話でも類似 ...

明王は密教特有の「変化(へんげ)の仏」である。それは慈悲だけでは救済できない衆生を「怒り」によって正しい方向へ導くと言う。五大明王は「仁王教」の内容から空海が定めたようで、不動明王を中心に降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王をそれぞれ東西南北 ...

中国西部、甘粛省の西端に位置する敦煌は、東と北はゴビ砂漠、西はタクラマカン砂漠が広がり年間雨量が40mmに満たない乾燥気候だが、南側の祁連(キレン)山脈の豊かな地下水によってオアシス都市として栄えてきた。記録によると唐の時代には大きな川も流れていたらしい。  ...

上はピサヌローク市の寺院にあるチンナラート・ブッダである。タイで最も美しい仏像と言われている。(日本人の美意識とちょっと違うようだ。)スコタイ王朝はタイ族による初めての王朝で、13世紀中頃、クメール民族のアンコール王朝から独立した。日本は鎌倉幕府の時代であ ...

アンコール・トムのバイヨン遺跡・・・・・・・それは僕にとってはバロック・フーガ、ゴシック建築と共にディオニュソス的高揚を感じさせる心の原風景だ。最初にその写真を見た時の驚きは今でもはっきり覚えている。初めて見たはずなのに、どこかで見た印象・・・・デジャブ ...

7世紀後半、海路でインド留学を目指した唐の義浄は仏教王国シュリーヴィジャヤの繁栄ぶりに驚嘆した。唐帰国後に書いた「南海寄帰内法伝」によれば1000人以上の僧がおり、学問的にもインドに劣らない水準だったと記されている。彼はそこで5ヶ月滞在してサンスクリット ...

                                                                                 興福寺 金剛力士像「金剛力士」は「執金剛神」とも言われる。しかし「執金剛神」は着衣姿で一体、「金剛力士」は上半身裸で2体で表すのが普 ...

毘沙門天はヒンドゥー教の神、ヴァイシュラヴァナに由来する。彼は異母兄弟のラーヴァナとシュリーランカー(スリランカ)の地の支配権をめぐって大戦争を繰り広げた。ヴァイシュラヴァナには夜叉が従い、ラーヴァナには羅刹が従う。それは夜叉と羅刹の戦争でもあった。そし ...

興福寺の阿修羅像はあまりに有名である。その微かに眉をひそめた、憂いを含んだ顔。それは童子の顔だ。それは「修羅場」といった言葉から受けるイメージと全くかけ離れている。そして3つの顔と6本の手。これは何を意味するのか?阿修羅の起源は古く、最古のヴェーダである ...

前に岡本かの子について書いた。http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15670109.html彼女の仏教観は現代のスピリチュアリズムに近い独特のもので、「煩悩即菩提」を「人間性は欲も含めて全て大きな生命の流れである」と読み込み、天台哲学の「十界互具」「一念三千」を ...

書き遅れてしまった感があるのだが、画家の堀文子氏が2月5日に亡くなったそうである。100歳の白寿だったとの事。僕は恥ずかしながら堀文子さんの名前すら知らなかったのだが、ネットで画像検索してその斬新な感覚に驚いた。堀文子氏は女子美術専門学校(現・女子美術大学) ...

前回に引き続き書道と武道の相似象について。再び多木先生の解説を参考にさせてもらう。http://y-tagi.art.coocan.jp/404.htm王鐸(1592~1652)は明末清初の書家にして歴史家である。明朝では礼部尚書にまで出世したが清軍が南京に迫ると降伏し清の役人となった。Wikipedia ...

顔真卿(がんしんけい)は王羲之と並ぶ書の大家とされ、特に行書の重く太い線は中国山水画と絶妙な親和性を発揮する。王維に発する文人画を「南画」と名付けたのは顔真卿である。僕が顔真卿に興味を持ったのはこの山水画との関係と、もう一つは日本の書聖たる空海が王羲之よ ...

行書の確立者と言えば王羲之である。下の写真はやはり多木洋一先生のサイトからお借りした。多木先生による王羲之の「蘭亭序」の臨書の一部である。・・・・・・脳がトロけるほど美しい・・・・・・王羲之の書を評して「龍が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」など ...

これから4回にわたって中国の書と武術の相似について書く。下の書は米フツの行書を日本の多木洋一という先生が臨書したものの一部である。http://y-tagi.art.coocan.jp/index.htm   (米フツのフツはiPadでは変換できないが、草かんむりに市)僕が最近トゥーツ・シールマ ...

向源寺の十一面観音像、薬師寺の聖観音像と並んで、僕の最も気に入っている仏像は大阪の河内長野市にある観心寺の如意輪観音像である。 密教では性的エネルギーを変換して解脱のために利用する事が説かれる。クンダリニー・ヨーガやタントラの方法である。密教美術にエロテ ...

観世音菩薩は観自在菩薩とも言われる。サンスクリット名はアヴァロキティ・イシュヴァラ。アヴァロキタは「遍く観る」、イーシュヴァラは「自在主」だから観自在菩薩の方が原語のニュアンスに近いと言われてきた。しかし、最近古いサンスクリット語の法華経でアヴァロキタ・ ...

↑このページのトップヘ