カテゴリ: 近代日本思想史

加藤弘之(1836~1916)は明治期の啓蒙主義者として福沢諭吉と並び称される存在であると同時に日本における社会進化論者の代表とも見なされている。彼は1836年、但馬国出石藩の家老にして兵学師範、加藤正照を父として生まれた。武士の慣い通り幼少時は儒教の教育を受けたが1 ...

「学問ノススメ」と「文明論乃概略」で福沢諭吉の人権論、平等論を見てみよう。>人と人との釣合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず、権利道義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あること ...

武士的エートスの濃厚な陸羯南が福沢諭吉を嫌った事はこれまで見てきた通りだが、逆に福沢は儒教的武士道を攻撃している。戦後、丸山真男が福沢を非常に高く評価して以来、日本のいわゆる「進歩的知識人」の多くがその評価に追随してきた。彼等によれば福沢は卑屈だった日本 ...

今の日本は長期的に見て文明全体が衰退へと向かっているのは明らかだ。日本の長期低迷化の原因には幾つもの要素が絡まり合っている。その凋落の構造について書こうと思う。思索の時間が足りなかったので、少し粗雑な記事になったかも知れない。この記事を書こうと思ったの ...

自由民権運動時代の資料を読む内に、神島二郎の「欲望自然主義」の問題提起をかなり修正する必要があると考え始めている。 「欲望自然主義」の意味をもう一度確認すると、武士的エートスが変質し、欲望のままに生きる精神へと変質して行く事と神島二郎は説明している。 ...

最後に陸羯南の立憲帝政党の分析を検討する。 立憲帝政党は1882年に政府支持政党として作られたもので福地源一郎をその代表とする。 この党は知らない人も多いと思うのでその内容をWikipediaから一部転載する。 >立憲帝政党は天皇主権・欽定憲法の施行・制限選 ...

次に陸羯南の立憲改進党への見方を検証する。 >改進論派は真に泰西のリベラール論派を模擬するものなり、泰西においてリベラール論派と称する者は中等の生活を権利の根源とし個人自由を政治の標準となす。 >自由論派は泰西にいわゆるデモクラシック論派に近し、デモ ...

陸羯南の自由論を検証しよう。 彼はまず西洋と東洋の考え方が如何に根本から違うかを説明する。 >おおよそ東洋諸国の風習たるや主として服従忍辱を尚ぶ、その社会の構成は上下層々互いにその上を敬しその下を制しいわゆる上制下服に基づく、ゆえに父は父たら ...

丸山真男は1947年に書いた「陸羯南──人と思想」で羯南を大変高く評価している。 「彼は後進民族の近代化運動が外国勢力に対する国民的独立と内における国民的自由の確立という二重の課題を負うことによって、デモクラシーとナショナリズムの結合を必然ならしめる ...

陸羯南は三宅雪嶺と共に明治中期の開明的な国粋主義を代表する思想家であり三宅雪嶺の起こした「政教社」と陸羯南の「日本新聞」は両輪となって明治の剛毅の時代を疾駆した。 僕の以前の分類では徳富蘇峰らの前向きのブルジョア的ナショナリズムに対し、陸羯南、三宅雪嶺 ...

三宅雪嶺は明治20年頃を境に「外柔内硬」から「対外硬」へと政府自身が大きく転換しそれは伊藤博文が外柔内硬の非に気付いたからであると見ている。その通りならば政教社の活動は功を奏したと言える。 不平等条約の改正の為、欧米の風俗を日本に広める事、それは背 ...

三宅雪嶺は明治時代の思想史について興味深い事を述べている。 征韓論は攘夷論の変形であり民選議院論は尊皇論の変形だと言うのである。 覇道と王道をはっきり峻別した孟子の民本主義が欧米の民主主義と重ねて見られた事は或る意味で自然な事だと思う。僕が前に書 ...

三宅雪嶺は最後に日本の伝統的な美術・工芸の目指すべき方向について述べている。 寺院や城郭などの建築、鎧兜や刀剣などの工芸、仏像、絵画、詩文など芸術的価値がヨーロッパに劣らない事を強調した後、我が国の文化の特色は何か?と問うて、それは「軽妙」にあ ...

次に彼が強調するのは「富国強兵の薦め」である。 彼は個人においても国家においてもほぼ対等な力関係を前提として初めて信義が成立する事を主張する。 また「工業や海運を盛んにせよ」との論に対し、それも大切だが、そのためにはまず第1次産業を育てる必 ...

彼はまず日本人を中国系ではなく蒙古人種(モンゴル系)とし、モンゴル系がアリアン系に決して人種的に劣らない事を強調する。 (彼の言う蒙古人種とは「満州韃靼」とも言っている様に女真から鮮卑、匈奴、烏丸など東アジアの騎馬民族全てを含む意味で使っている。 ...

三宅雪嶺が「真善美日本人」「偽醜悪日本人」を書いたのは1891年(明治24年)32歳の時である。 政府が不平等条約改正の為、欧米諸国の印象を良くしようと鹿鳴館で毎日ダンスパーティーを開いていた様な「欧米に媚びを売る政策」に怒った彼は1888年(明治21年)志賀重昂、 ...

戦前の日本の精神構造が「欧米から輸入された近代」と「前近代的な伝統文化」の二重構造であった事は多くの人に指摘されてきた。この二重構造は形を変えて戦後、現代まで続いていると思われる。藤田省三は「天皇制国家の支配原理」でこの二重構造を「ヨーロッパ絶対王政的な ...

「日本主義」を唱道していた頃の高山樗牛はなぜ仏教やキリスト教の「超絶的な宗教」を攻撃したのだろうか?「美的生活を論ず」における道徳の自立性の否定、本能の肯定と考え合わせる時、一つの仮説が浮かび上がる。彼は神人隔絶教の信仰が「道学先生」の道徳と同様に「情や ...

神島二郎の欲望自然主義論は分かりにくく、支持できる部分と疑問を感じる部分があるのだが、まず彼の言う事を要約する。高山樗牛の「美的生活」は決して性的放縦の生活を奨励しているのではなく、彼自身は忠臣義士や孝子節婦を念頭に置き、その献身に本能の充足を具現する事 ...

                                               高山樗牛(上写真)が文壇に出たのは小説「滝口入道」によってであった。その後、雑誌「太陽」の編集主幹となった彼は三国干渉の後でロシアへの反感が高まっていた中で「日本主義」を唱え、盛ん ...

神島二郎は、武士的エートスの暗転の前提として西洋と日本で「私と公の関係」が全く異なる事を挙げる。彼によれば、西洋においてはプラスの私を公に媒介するのに対し、日本(武士的エートス)ではマイナスの私を公に媒介する。(滅私奉公)前者ではインパーソナルな権力と自 ...

神島二郎にとって擬制村「第二のムラ」こそ天皇制ファシズムの温床となったものであり、その特徴について詳説している。その中で全体の論旨と「欲望自然主義」を結ぶものとして重要だと思われる観点を幾つか記しておく。(1)奢侈と過倹これは自然村的秩序における「ハレと ...

政治学者にして社会学者、神島二郎は広い意味での「丸山真男学派」と見なされる。彼は吉本隆明と同様、戦争中は軍国青年であり、戦争末期には大日本帝国と心中する事を夢見た。敗戦時には天皇陛下が当然自刃するものと想像していたらしい。しかし陛下は生き残り、人間宣言を ...

岡本かの子の自然主義文学論を簡単に紹介したい。 岡本かの子は大阪万博の時に「太陽の塔」を製作して一躍有名になった彫刻家、岡本太郎氏の母親である。(上写真)彼女は作家であると同時に仏教の研究家でもあり、芸術と宗教の狭間で悩みながら仏教文学の創作を続けた。彼女 ...

藤村は半蔵のモデルである父と対照的な人である。国学に心酔し政治と生活の間で悩み破綻し発狂した半蔵と、政治的意見をほとんど表明した事の無い藤村。情熱家の半蔵と「新生」の中で自らを「傍観者的」と評した藤村。山林の国有化をめぐる問題も父から引き継いだのは兄の広 ...

大政奉還の知らせは底辺の百姓にまで衝撃を与えた。平田派国学に心酔した半蔵にとってはもちろん夢の様な出来事であった。ここで彼はその後を予感する物を見る。薩長を中心とする新政府軍の歌う軍歌である。  宮さま宮さまお馬の前に   ひらひらするのはなんじゃいな  ...

「夜明け前」は僕の自然主義文学論の第一の正念場であると自覚している。前半の主人公、吉左衛門は藤村の祖父がモデルである。木曽の山村にある馬籠(まごめ) の本陣(身分の高い人専用の宿) の当主だった彼は村の世話役でもあった。村人の結婚などの祝時には吉左衛門がい ...

 >彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度に、自分の傷口が破れてはそこから血の流 ...

>僕の肉体には本能的な生の衝動が極めて微弱になって了ったからである。永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽である。然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常--僕は僕の生気の失せた肉 ...

                                   この長編小説は主人公である三吉の一家とその実家である小泉家、 三吉の姉のお種の嫁ぎ先である橋本家、2家族の没落を描いたものである。三吉は藤村自身がモデルになっている。これは自伝的小説なのだ。 主人公を ...

北村透谷は論理よりも直感力に長けた人であり、その評論は論理的に読もうとすると矛盾が多い事に気付く。しかし、彼の惹かれた物は何か? 嫌った物は何か?という事を直感で読み取り繋げて行くと、彼の文章は言葉の表面的な意味以上の事を語っている事がしばしばある。透谷は ...

今回は北村透谷の2つの評論「人生に相渉るとは何の謂ぞ」と「明治文学管見」から彼の文学、芸術観を概観してみる。「人生に相渉るとは何の謂ぞ」は 民友社の論客、山路愛山の「頼襄を論ず」への反論として書かれたものだ。 明治26年、「厭世詩家と女性」を書いた翌年である ...

                                                        北村透谷日本の自然主義文学への考察の次の一歩を進める前に、ロマン主義に括られながら島崎藤村らの自然主義作家にも大きな影響を与えた北村透谷について書く事にする。島村抱月が言 ...

文学はいつの時代でも単なる娯楽ではなく生き方の模索でもある。しかし特に近代文学では自由を獲得した個人の主体性が問われ、またその主体性が中央集権国家の意志に否応無しに巻き込まれ、従って個人が政治的にならざるを得ない、という点で文学が世界観を持つ思想である事 ...

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