ニーチェの処女作「悲劇の誕生」はその後の彼の思想の根本モチーフを直接的に表現している、謂わばニーチェ思想の「原点」である。
「キリスト教のルサンチマン」「強さのペシミズム」「ギリシャ神話とユダヤ神話の対称的性格」「道徳に対する芸術の優位」など、その後のニーチェの著作に表れるほとんど全てのモチーフの原型がそこにある。
しかしここではその中で「ディオニュソスとアポロ」の概念についてだけ説明しようと思う。これは芸術だけでなく、人間の精神のあり方を分析するのに非常に有効な理念型となり得るし、僕の美術史や仏像の書庫の方法と密接に関係すると思うからだ。
ギリシャ神話でのディオニュソスとアポロから説明するとあまりに長くなってしまうので、ここでは、あくまでも文化を見る1つの座標軸としてのディオニュソスとアポロを問題にする。
cf. http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15616723.html
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ニーチェの考えでは自然界の個物は「仮象」であり、本当に存在するのは「根源的一者」のみである。これはニーチェの独創ではない。パルメニデス以来、古代ギリシャ哲学の中でひとつの底流として流れて来たものだ。
cf. http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15616723.html
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ニーチェの考えでは自然界の個物は「仮象」であり、本当に存在するのは「根源的一者」のみである。これはニーチェの独創ではない。パルメニデス以来、古代ギリシャ哲学の中でひとつの底流として流れて来たものだ。
しかし、ここからがニーチェの独特な所なのだが、
「根源的一者」はドロドロとして暗く矛盾に満ちた物であり、苦悩する意志である。(ショーペンハウエルの「苦悩する生への意志」を連想させる)
「根源的一者」はドロドロとして暗く矛盾に満ちた物であり、苦悩する意志である。(ショーペンハウエルの「苦悩する生への意志」を連想させる)
これをニーチェは「ディオニュソス的原理」と名付けた。
この「ディオニュソス的なもの」に触れる時、人間は「戦慄的恐怖」を覚えると共に「歓喜あふれる恍惚感」をも覚える。
(バタイユの両極の聖性を連想させる)
この一者は自己の矛盾、苦悩を救済するために、明るい仮象、幻影を必要とする。これが「アポロ的原理」だ。個体化は根源的一者の「自己救済」であり、根源的一者にとって「快感」なのである。
(フロイトの「本能とその昇華」の理論を彷彿させる)
しかし、アポロ的原理=個体化の原理は「禍の根源」でもある。それはあくまでも「仮象、幻影」だからだ。芸術は最終的に個体化の呪縛を破り、根源的一者への合一を目指さねばならない。
「根源的一者への回帰」(ディオニュソス)とその矛盾の解消としての「個体化、形象化」(アポロ)この二つの力の相克と融合によってニーチェはギリシャ文明史を解読する。
個体化とは具体的な形象へと分化していく事である。したがって造形美術はアポロ的なものの表れである。
それに対し音楽の根源はデュオニュソス的なものであるとニーチェは考える。
聴覚は視覚よりも根源的な感覚であり、ニーチェにとって音楽とは根源的一者の胸の内にある矛盾と苦痛を象徴するものである。
聴覚は視覚よりも根源的な感覚であり、ニーチェにとって音楽とは根源的一者の胸の内にある矛盾と苦痛を象徴するものである。
また「夢」はニーチェによればアポロ的なものである。
「ルクレティウスの考えによると、壮麗な神々の姿が人間の魂に初めて浮かんだのは、夢の中においてであったという。」
さらにハンス・ザックスの「すべて詩歌の道は夢解きにほかならない」の一句を引いて、詩も夢から生まれたのだと言う。夢の世界の美しい仮象があらゆる造形芸術の前提であるとニーチェは考える。
アポロは「予言の神」でもある。予言は夢と同様、空想的に心の中に描き出される世界の美しい仮象であり、「睡眠が我々を治癒したり、夢が我々を助けてくれるといった自然の深い計らいがあるという事は、予言する能力の象徴的類比である。」
「夢」と「予言」がアポロの特性だとすれば、ディオニュソスの特性は「陶酔」と「忘我」である。
ディスコやロックコンサートでの興奮はニーチェの見方では全てディオニュソス的なものだという事になるだろう。
対象と一体化するのがディオニュソスの原理であり、対象から距離をとって節度を持って眺めるのがアポロの原理である。
ニーチェによれば原初のディオニュソス祭りである「ディテュランボス」は東方の野蛮な狂騒であり、これがギリシャに侵入してきた時、アポロ的な原理がこれに対する拒否、防衛を示しているのが「ドーリス式建築」だと言う。
ニーチェによれば原初のディオニュソス祭りである「ディテュランボス」は東方の野蛮な狂騒であり、これがギリシャに侵入してきた時、アポロ的な原理がこれに対する拒否、防衛を示しているのが「ドーリス式建築」だと言う。
そしてアッティカ悲劇はディオニュソス的な原理とアポロ的な原理が融合されているのだと言う。それがソクラテスとエウリピデス以降はディオニュソス的な物が衰退していった。しかしドイツのバッハ、ベートーヴェン、ワーグナーによって復活されつつある、というのがニーチェの見方である。
以上、ニーチェの見方を整理すると次の様になる。
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このニーチェの分類法は「根源的なものは暗くドロドロした矛盾に満ちた存在である」という前提、言い換えれば「世界の悲劇性」というグノーシス的世界観に立つ限りで有効である。
こういう前提に立っている哲学者、社会学者は他にもいる。フロイト、マックス・ヴェーバー、バタイユなどである。
この座標軸は文化のある面の本質的な事を的確にえぐり出す。
例えばゴシック建築やヒンドゥー建築にはディオニュソス的エロス
を感じる。それは「情念の氾濫」「狂気」である。
インドや東南アジアでは、文章に形容詞、副詞をたくさん付けて
長い文章にすればするほど上品だ、という感覚がある。
ヴェーダや大乗仏典がその良い例である。
美術ではそれが「限られた区画の中に人や動物をギッシリと詰め込む表現」となる。
アンコールワットの壁のレリーフ(下図)を見れば分かるだろう。
アンコールワットの壁のレリーフ(下図)を見れば分かるだろう。

ゴシック建築の怪物のレリーフにも共通点がある。
そしてゴシックの美学はスコラ哲学や対位法の音楽にも表れている。
それは「複数のものが絡まり、錯綜する事」から生まれる美である。
これと対極をなすのが中国の禅宗の美学である。
禅宗の美はニーチェの所謂「アポロ的なもの」だろうか? そうではない。
彼らにとって根源的一者は「水のようなもの」「色のないもの」「矛盾のないもの」「苦から解脱したもの」である。
ここで、ディオニュソスとアポロを解釈し直してみたい。
「根源的なもの」が暗く、矛盾と苦悩に満ちたものと見る見方を「ディオニュソス的」、「根源的なもの」が明るく、無色透明の、歓喜に溢れたものと見る見方を新たに「アポロ的」と名付ける。
勝手に定義を変えるな!と怒る人もいるかも知れない。しかしデタラメに変えているわけではない。「ブレンスレッドの酸塩基」から「ルイスの酸塩基」に拡大解釈する様なもので、僕の定義はニーチェの定義を含み、拡大解釈によってより多くの美術や文学の傾向を説明できるようになるのである。
例えば、今まで「ルネサンスは性善説的、プロテスタントは性悪説的、ゴシックはその中間」としか説明できなかったが、今や「ゴシックにはゾロアスター教、マニ教から継承したディオニュソス的傾向が有り、それがカルヴァンによってアポロ的なものに置き換えられた」と言えるようになるわけだ。
そして山水画とオランダの風景画の共通性についても語れるようになる。カルヴァン派と禅宗、道教は同じ(再定義された)アポロ的傾向を持っているからだ。
またバッハの音楽には典型的なディオニュソス的美意識が現れており、逆にバロック・オペラは典型的なアポロの美学である。


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