(1)オイディプスとプロメテウス
周知の通り、ギリシャ神話は先ずホメロスやヘシオドスの「叙事詩」として、次にアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス等による「アッティカ悲劇」として表現された。この二つの間には断絶がある。
テーバイの王オイディプスの呪いの物語はアガメムノンと共にギリシャ神話で最も多く取り上げられる話題である。
オイディプスの物語はあまりに有名なので詳しくは述べない。
彼は「父を殺し母と結婚するだろう」との忌まわしい予言の成就を避けるために養父の下を去りかえって予言を成就する結果になる。
真実を知った母イオカステは自殺し、オイディプスは針で自分の両目を突いて盲目となり、乞食となって彷徨う。
オイディプス神話で奇妙なのは彼がテーバイに戻った時のスピンクスの謎解きと退治のエピソードだ。
これは呪われた運命の一連の話と全く関係無くこれだけが浮いている謎めいた話に見える。
僕はこの奇妙さは古事記のスサノオ神話で高天原での性的暴行を示唆する乱暴と地上に追放されてからのヤマタノオロチ退治の組み合わせの奇妙さと似ている印象を受けるのだ。
この母との近親相姦の物語とスピンクスの謎解きの物語の間に深い関係を認めたのがニーチェだった。
ニーチェの「悲劇の誕生」は彼の処女作であり、その後の彼の全ての思想的萌芽が現れているニーチェ思想の原点でもある。
ニーチェは「賢い僧侶は近親相姦からしか生まれない」と言うペルシャの諺を挙げ、この二つの間に関連性があると主張する。
「ディオニュソス的知恵こそは、自然に逆らう悪逆であり、その知恵によって自然を破滅の淵に突き落とす者は自分の身にも自然の解体を経験しなければならぬという事なのだ。」
スフィンクスの謎は自然に隠された知恵であり、謎解きはそれを自然から奪う事、そして近親相姦はその罰として自身が受けた自然の解体である。
ニーチェはオイディプス神話とプロメテウス神話が対になっていると言う。
「人類が最高至善の物を手に入れるには冒涜を犯さざるを得ない。従ってまたその結果(罰としての苦悩と悲哀)を受け取らざるを得ない羽目になる。」
最高の知恵、隠された知恵を得る為の神への冒涜、そしてそれ故の罰を敢えて引き受ける事。
ニーチェはこれを英雄的な行為と考えたのである。この能動的な面がプロメテウスであり、受動的な面がオイディプスである。
(2)プロメテウスと堕罪神話の対称性
ニーチェの思索はさらに飛躍する。彼はこのオイディプスとプロメテウスの2つがアーリア民族の核心であり、それがユダヤ民族のアダムとイヴの堕罪神話と対称性を持っていると言う。
「この考え方は冒涜に尊厳を与えている事で、セム族(ユダヤ人)の堕罪神話と奇妙な対照をなしている。」
「なぜなら堕罪神話では、好奇心とか、偽りの見せかけとか、誘惑され易い性質とか、好色とか、要するに一連のとりわけ女性的な性情が禍の根源と見られているからである。」
「これに反しアーリア的観念を特色付けるものは、能動的な罪を本来プロメテウスな徳と見る崇高な見方である。」
「冒涜はアーリア人によって男性と解され、罪はセム人によって女性と解される。」
ニーチェの「強さのペシミズム」「運命愛」という思想の原点はユダヤ・キリスト教的原罪論への嫌悪とギリシャ悲劇への共感にあった。
(3)悲劇の自己救済としてのアポロ的仮象
周知の通り、ギリシャ神話は先ずホメロスやヘシオドスの「叙事詩」として、次にアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス等による「アッティカ悲劇」として表現された。この二つの間には断絶がある。
ギリシャ悲劇はホメロス叙事詩の継承ではなく「ディテュランボス」という狂騒的舞踊と音楽から始まった。
それは小アジアを起源とする酒と酩酊と恍惚の神ディオニュソスを讃える祭りだった。ディオニュソスは元来異民族の神だったのだ。
(このディテュランボス起源説は現代の学者も承認している。)
「ディオニュソスとアポロ」の記事に書いた様に、ニーチェはギリシヤ悲劇を「アポロ的仮象の背後にディオニュソス的な衝動が表現されたもの」と考えた。 http
彫刻美術に見られる「ギリシャ的明朗さ」は仮象であり、その背後には「生の残酷さ」という共通認識の上に立つペシミズムがある。
ギリシャの暗黒時代の戦争は非常に残酷なものであったらしい。男は皆殺し、女は性奴隷とされた。逃げのびた男は妻や子を捨てて船に乗り海賊となった。そして彼等がまた別の都市を略奪する。
デュオニュソスの従者シレノスは、ミダス王に捕縛され「人間にとって最も良い事は何か」と聞かれた時、嘲笑しながら次の様に答える。
「一番良い事は生まれない事、存在しない事、その次に良い事はすぐに死ぬ事だ。」(!)
インドのウパニシャッド時代の強烈なペシミズム、「いかにしてこの地獄の生を終わらせるか?」というペシミズムを当時のギリシャも共有していたのだ。
この残酷な生を生きる中からどの様にしてあのプラクシテレスの均衡美、裏表の無い静的なイデアの美学が生み出されたのか? ニーチェの問いはここから始まる。そして彼はディオニュソス的なものがアポロ的仮象をとる事に「救済」を求めるのである。
アポロ的仮象と言っても、それが「上っ面」「偽物」という意味ではない。それは本来のディテュランボス、すなわち小アジアの性的放縦の狂乱からギリシャを守り、それを芸術にまで高めるのに必要だったのである。それは謂わば「ディオニュソスとアポロの和解」である。
「真に実在する根源的一者は永遠に悩める者、矛盾に満ちた者として、自分を絶えず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快感に満ちた仮象を必要とする。」
「個体を生み出すという事で、根源的一者の永遠に達成された目標すなわち仮象による自己救済が実現されるのだ。」
ニーチェの定義によれば、個体化はアポロ的衝動であり、従って彫刻、絵画もアポロ的仮象である。しかし、その仮象は根源的一者の自己救済なのだ。
それは日本の室町~戦国時代の激しい戦乱の中で枯山水、茶道、能などの幽玄、恬淡の芸術が花開いた事と比較できるかも知れない。
(4)詩・音楽としてのギリシャ悲劇
B.C.8世紀のホメロスが「叙事詩の祖」と言われるのに対し、B.C.7世紀にギリシャ人を魅了した詩人アルキロコスは「抒情詩の祖」と言われている。
植民地を攻略する傭兵として生きた彼は、闘いの神アレスと芸術の女神ムーサイの情熱的な交錯を歌い「怒りの詩人」と呼ばれた。
多くの研究家はホメロスの叙事詩の客観性とアルキロコスの抒情詩の主観性を対置させ、その叙事詩から抒情詩への移行に神話の世界に埋没できない個性の発現を見た。
多くの研究家はホメロスの叙事詩の客観性とアルキロコスの抒情詩の主観性を対置させ、その叙事詩から抒情詩への移行に神話の世界に埋没できない個性の発現を見た。
しかしニーチェはこの様な見方を否定する。
ニーチェによれば、抒情詩人はまずディオニュソス的芸術家として、根源的一者の苦悩や矛盾と一体になり、それを音楽として生み出す。次にアポロの夢の作用で比喩的な形象を生み出すのである。
「抒情詩人の私は存在の深淵から響いてくるのである。
近代の美学者たちが抒情詩人の主観性などと言うのは一つの空想に過ぎない。」
「この抒情詩が最高の展開をとげる時、悲劇と呼ばれ、演劇的ディテュランボスと名付けられるのである。」
このニーチェの言葉は近代日本の「私小説論争」を連想させる。
「私」しか描かなかった事が問題なのではなく私という「個別課題」の中にある「普遍的テーマ」を体系的・論理的に展開できなかった事、儒教的抑圧から解放された「恋愛する主体」を掘り下げる事ができなかった事(僕の考えでは北村透谷だけは例外だが)が問題なのだ。
「個別課題の中にある普遍性」を発見する事、これに較べれば「客観的か主観的か」という事はむしろ表層的な問題に過ぎない。
この様に考えればニーチェの主張は結構分かりやすいものである。
ただ彼の独創的な所は、叙事詩と彫刻を、抒情詩と音楽を同質のものと考えた点、
また根源的一者を「苦悩する矛盾的存在」と捉えた点にあると言える。
また根源的一者を「苦悩する矛盾的存在」と捉えた点にあると言える。
「彫刻家およびこれと同系統の叙事詩人は、様々の姿かたちを純粋に見るという事に没頭する。ところがディオニュソス的音楽家はどんな形象をも持たない。」
「音楽は意志として現象する。」
「音楽はその本質から言えば意志ではあり得ない。・・・中略・・・だが音楽が現象する時は意志なのだ。」
ドビュッシーやラヴェルの絵画的音楽を知っている現代人にはこの言葉は同意できない人が多いだろう。
しかしニーチェがバッハやベートーヴェンやヴァーグナーの音楽にギリシャ悲劇と同根の「苦悩する意志」を発見し、それを哲学的に基礎付けようとした点は大いに評価できる。
(5)運命愛
この「苦悩する意志」を象徴しているのが、ニーチェによればオイディプスとプロメテウスなのだった。なぜなら彼等は神の意志に逆らい、それによる罰をもいさぎよく引き受けたからである。
巨人の意志の神に対する反逆はかなり良い線まで行く。しかしその後、忌まわしい偶然が幾つも重なり、最後には神の意志が予言通りに実現される。巨人は神に逆らった者として過酷な刑罰を受ける。こうして人々は神の底知れない力を思い知らされる事になる。
ギリシャ悲劇は「運命との闘い」である。しかしオイディプスとプロメテウスは最後には自分の運命を運命として受け容れ、それを愛するようになる。
ニーチェはギリシャ悲劇に「運命愛」という思想を読み取った。これはその後「永劫回帰」という観念と結び着く事でさらに先鋭化される。
永劫回帰が物理的に証明されるかどうかはニーチェにとってたいして重要な事ではない。それは「永遠に続く苦悩を潔く引き受けるかどうか」を決断させるためのレトリックなのである。

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