南宋は言うなれば亡命政権である。皇帝が異民族の捕虜となり連れ去られ、さらに賠償金を課せられる、という前代未聞の屈辱は士大夫のナショナリズムを激しく高揚させた。

当然、南宋は金に奪われた失地の回復をスローガンとする。

しかし実際には岳飛を筆頭とする主戦論と秦檜を筆頭とする和議論が対立し、それに派閥争いが絡んで延々と党争を続け、後には理念を失ったただの派閥抗争と化しそれが返って国力を弱める事となった。

一方、朱子学は従来の儒教に欠けていた宇宙論的形而上学と深い心理学を道教と仏教の理論的影響の下で補い、心理というミクロコスモスから宇宙というマクロコスモスまで一貫した理論体系を作り上げた。
朱子学もまた、儒教を仏教や道教に思想的スケールや深さの点で拮抗させようとした士大夫階級のナショナリズムを反映している。
しかしその代わりに大義名分論に象徴される様に政治問題を観念化し、リアル・ポリティックスの感覚を失う傾向があった。

理念を失った党派闘争とリアル・ポリティックスを失った観念的道義論、これが南宋時代の思想的傾向である。
この二つの傾向は一見矛盾する様で、実は「思想と現実の間の往復運動が失われた」という点で根は同じである。

これが美術の分野では「理念と切り離された細密技巧と現実感を失った憧憬的風景」という形で現れる。

南宋時代は画院の職業画家が美術の中心であり、士大夫官僚は詩文には長けていても美術にはあまり関心を示さなかった。
士大夫は政治議論と党派闘争に熱中していたのである。

院体画は山水、花鳥から道釈(主に禅僧を描いた人物画)まで広いジャンルにわたり、いずれも繊細な描写、淡くデリケートな色合いを特色とする。

特に山水画では画面の一角に景色を偏らせる「辺角の景」がそれまでの江南山水画には無い大きな特色である。




馬遠は5代にわたって画院画家を出した名門の出である。

12世紀の末から13世紀の初め頃(寧宗の時代)に院体画家の代表的存在となり、その後、元明時代の文人画や日本の水墨画に大きな影響を与えた。

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             馬遠  踏歌行図


左側と下側に偏った「辺角の景」は「残山剰水」(亡国の山水)を表わす。デフォルメされ、霧と雲にかすむ遠景の山は、金に奪われ彼方に失われた中原の山である。

幻想の様に憧憬する事しかできないその山々は、北宋時代の荒々しく威圧感を与える華北山水とも、温和で親しみのこもった北宋時代の江南山水とも違い、どこか哀愁を帯びて見える。

そして画面中央の大きく開けられた何も無い空間・・・・・
僕にはこれは心の空洞、喪失感を表している様にも見える。

下に見える小さく描かれた人はドイツ・ロマン派のフリードリヒの絵を連想させる。フリードリヒの場合と同様、馬遠でも人の小ささに孤独や人生の儚さといった心象が投影されている。



夏珪は馬遠とほぼ同時代の院体画家で、やはり日本の水墨画に大きな影響を与えた人である。

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             夏桂  山水図


夏珪は微妙な墨のぼかしによる表現で「馬遠の筆、夏珪の墨」と評された。ぼかしによって大気の湿度や潤沢な光を表現するのは北宋時代の江南山水画以来の伝統である。

しかし夏珪の場合は一層デリケートになり、遠景の山はもはや蜃気楼の様で、その儚さ、淡さは近景の岩や松のリアルさとの対比でさらに際だたせられている。

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亡命政権の南宋も1276年、フビライの元によって滅ぼされた。ここで漢民族は一時的に祖国を失う事となる。

しかも元王朝は、画院はもちろん科挙も廃止し、儒者を娼婦と乞食の間の身分と見なすなど、漢民族を激しく差別した。

ここで士大夫階級のナショナリズムは新たな展開を見せる。
峻烈な政治意識と隠遁精神の両義性がもともと士大夫の階級意識の特色だったが、ここで瀕死の状態になった漢民族の文化は隠遁精神を越えて明確な「反体制の精神」へと変わっていくのである。

そして、そこで初めて「文人」という言葉が特殊な意味合いを持って自覚される様になる。

何故なら文人とは元王朝に妥協しない者、モンゴル民族に召し抱えられて官僚となる事を潔しとしない者、という意味になるからだ。

峻烈な政治意識と隠遁精神の両義性は消え、反体制精神が同時に愛国精神でもあるという一つの造反精神として文人の観念は純化されて行くのである。
その詩文や芸術に与えた影響を次回述べる。