中国が外国に占領された時の知識人の抵抗の執念深さは殷の伯夷、叔斉から毛沢東まで一貫している。

元が南宋を滅ぼした時、フビライは優秀な人材を求めて南宋で名を知られた高級官僚を招聘した。

それは半ば強制であり断れば投獄、場合によっては死を意味した。
当然投降する者も多かったが、死を賭して抵抗した者も多く、その代表が文天祥(ぶんてんしょう)である。(下図)
 

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彼は元軍に捕らえられた後、一度脱走し抵抗運動を組織するが、
2年後、再び捕らえられ北京に送られる。

元の将軍は彼に何度も帰順を呼びかけたが、彼は頑としてそれを断り、地下牢に監禁された。

そこは筆舌に尽くしがたい不衛生で劣悪な環境だったが、彼はそこで2年も耐えた。その間も元の使者が入れ替わり立ち替わり地下牢を訪れ投降を呼びかけたが、彼は全く動じなかった。

彼はそのうち抵抗運動の象徴となり、中原では「文天祥を奪還せよ」というスローガンで数千人が蜂起した。こうなるとさすがに生かしておく訳にはいかなくなる。

1282年12月、フビライは彼を直接呼んで最後の説得を試みたが、彼はひたすら死刑になる事を欲し、処刑はその翌日執行された。

刑の直前、彼は南に向かって深々と頭を下げ死に臨んだ。
フビライは「この男は真の男子であった」とうなったと言う。

文天祥は忠臣義士の鑑となり、彼が地下牢で作った「正気の歌」は日本の藤田東湖や吉田松陰らに大きな思想的影響を与えた。
そのほんの一部を紹介する。

 

天地に正気あり 雑然として流るる形を賦す
下は則ち河嶽と為り 上は則ち日星と為る
人に於いては浩然となり 沛乎として蒼冥に塞つ(みつ)
皇路、清く夷か(たいらか)なるに当たれば 和を含んで明庭に吐く
時窮まれば節乃ち見われ(あらわれ)一つ一つ丹青に垂る

<大意>
天地の正気は流動的で定形は無いが、下に下れば山や河となり、上へ上れば日や星となる。それは人に於いては(孟子の所謂)「浩然の気」となり雄大な世界を満たす。それは政府が正しい時にはなごやかだが、非常事態ともなれば「節義」となり、その一つ一つの言動が歴史に残り語り伝えられるのである。

その日月を貫くに当りては 
生死も安んぞ(いずくんぞ)論ずるに足らん
地の維(つな)は頼りて以て立ち
天の柱は頼りて以て尊し
三綱は実に命に係り道義は之が根となる

<大意>
正気が日月をも貫く様な人にとっては死ぬか生きるかさえ問題ではない。
天地はその正気に依って成り立ち、人倫もそれが根本となっているのである。


此の如くにして再び寒暑あれど 百の妖気自ら辟易せり
ああ、ぬかるみの場も 我が安楽の国と為る

<大意>
二年間、多くの汚濁の妖気に囲まれていたが、あちらの方から自分を避けた。ぬかるみも(浩然の気があれば)安楽の国となるのだ。


まるで気炎を吐くような激しさは不潔で泥まみれの地下牢でも少しもたじろがない。

 
文天祥以外でも趙昂発、唐震、江万里、など最後まで元に投降するよりは死を選んだ高級官僚は多い。

では北京に招聘されなかった下級官僚はどうだっただろうか?

彼等はまず悉く失業した。もう一度下級官吏になる道も無いわけではない。しかし彼等の多くはそれを拒んだ。

官僚でなくなれば「士大夫」と呼ぶ事はできない。
彼等は「文人」と呼ばれた。
文人という言葉は元の時代では特殊な意味を持つのである。
それは今風に言えば「反体制知識人」なのである。
元初はこの様な文人による「抵抗文学」が流行した。


抵抗文学の代表に鄭思肖(ていししょう)がいる。(下図)
 
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彼はモンゴル人の残酷さ、文化の低さを激しい調子で非難する文章を書き、それを何重にも密封し蘇州の承天寺の古井戸に隠した。
「鉄函心史」と呼ばれるその書は355年後、明の時代に発見され、近代の革命家、梁啓超に大きな影響を与えた。

彼はまた画家でもあったが土の無い蘭を多く描いた。(下図)


                   
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                                                      鄭思肖の描いた「墨蘭圖」

それが宙に浮いている様に見える事を人に指摘されると、「土は蛮人に奪い去られたのだ。そんな事も知らないのか。」と答えたと言う。


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しかし元の支配が安定し、政治的抵抗が無駄である事が誰の目にも明らかになった時が文人の正念場であった。

官僚になる事を拒否すれば、別の商売をする以外ない。
彼等はそれまで軽蔑されていた戯曲の作家となったり易者となったり画家になったりした。

漢文、唐詩、宋詞、元曲と言われる様に、元時代に「三国志演義」や「水滸伝」の様な優れた戯曲が生まれたのは、それまでなら官僚になっていたはずの才能に恵まれた文人が戯曲作家になったからである。

高い教養を持った文人が民衆と交わる事は俗化の危険性を孕む。
しかし「俗」の意味は時代によって変化する。

士大夫にとって権力闘争は俗ではない。しかし地主の飽くなき金銭欲は俗である。また政治に無関心で「飲む打つ買う」に興じる大衆もまた俗である。

それが元代になると、わざと俗にまみれて「戯作」を誇りとする精神が現れる。それは革命運動で挫折した太宰治が自ら「戯作者」を名乗った事を思いおこさせる。抵抗運動は屈折するのである。


元初の鄭思肖に対して、元代の代表的詩人と言われる楊維通(1296~)は南宋の滅亡を体験していない世代である。
彼の「西湖竹枝歌」と言う詞を見てみよう。

郎(あなた)に勧む 上る莫れ南高峯
儂(われ)に勧む 上る莫れ北高峯

南高峯は雲 北高峯は雨
雲雨 相催して(あいうながして)儂を愁殺す 

<意味> 貴女はどうか南高峯に登らないで下さい。私も北高峯に登らない様に気をつけます。南高峰の雲と北高峰の雨とが一緒になると雲雨(うんう)の情(=男女の交情)が起こってきて、わたしを悲しませるから。

一見非常に分かりやすく単純な男女の恋愛感情を歌った詞の様である。恐らく酒の席で歌われたのだろう。
しかし僕はこの詞の背後に北(モンゴル)と南(南宋)の区別が無くなった事への隠された悲しみを感じるのである。
 
絵画に於ける戯作の精神を端的に表しているのが「墨戯」である。次回はその例を呉鎮
倪雲林に見ることにする。