全真教は金と南宋が南北を分けた時代、金の統治下にある華北の漢人、王重陽(1112~1170)によって創始された新道教である。


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                                            王重陽

彼は初めは科挙を目指して勉学に励んだが、天下が騒然としてくる中、武挙に合格し、軍人となった。

武挙とは唐時代に開始された武人の登用試験で、騎射(馬に乗って弓を射る技術)の他、兵法の学科試験もあったそうだ。

しかし軍の司令官は科挙に合格した文官であり武人の社会的地位は極めて低かった。文武両道が普通になるのは清の時代からである。

その事に失望しまた南宋の滅亡を知った王重陽は道教の修行に入る。


山水画(2)への序で述べた様に、慧能とその弟子、神会によって創始された南宗禅は神秀の漸悟に対して頓悟、教相判釈に対し不立文字、浄土教の他力本願、阿弥陀仏への信仰に対し自力本願、直指本心を主張し、仏教を士大夫的なものに作り変えた。

南宗禅によって初めて仏教はインド的な宗教から中国的な宗教へと変わったのであり現代のいわゆる「禅宗」とは南宗禅を指すのである。

そして唐の時代の禅僧、百丈懐海(749~814)が立てた「百丈清規」と「叢林制度」は、僧が田畑を耕して自給自足すべき事を定め、従来の「托鉢僧」の倫理を一変させた。

ヨーロッパでは労働修道院たるベネディクト派修道院、その発展型としてのクリュニー会、シトー会から、托鉢修道院としてのドミニコ会、フランチェスコ会へと「労働から托鉢へ」という方向を取ったのに対し、中国の禅宗は「托鉢から労働へ」という方向へ向かったのである。

その労働には上下の差別は無く、制度を定めた百丈懐海自身も労働したという。それは「一日作さざれば一日食らわず」というほど厳しいものだったそうだ。


この叢林制度は全真教に取り入れられる。

「全真の学は労苦に耐え耕作に努めることを第一とする。そのため、およそ居所飲食は自分で作ったものでなければ敢えて享受しようとしない。」
(袁角「野月観記」)

「田を耕し井戸を掘り、自らの労働で生き余ったものを人に施す」
(元好問「紫微観記」)

その教義は三教同源(儒教、道教、仏教)を旨とし、王重陽は老子の道徳経の他、般若心経を読む事を人々に勧めたと言う。(!)

不立文字、識心見性、など南宗禅の言葉を使う事をためらわず、叢林、清規などの制度をそのまま取り入れた。
修行の仕方も打坐と言って座禅に近い方法を取った。

全真教のもう一つの特徴は従来の道教にあった呪符や不老不死を目指す養生術を退けた事である。
これは南宗禅の「法々は隠蔵せず。古今つねに顕露なり。」という言葉と同様、マックス・ヴェーバーの言う「魔術からの解放」に当たる。

このように南宗禅と全真教は共に呪術的、貴族的な中世型宗教から倫理的、士大夫的な近世型宗教への移行として捉える事ができると僕は考える。



*この記事は「中国近世の宗教倫理と商人精神」(余英時著 平凡社)を大いに参考にしている。