ヨブ記のクライマックスでは神の声が嵐の中に響き渡る。神は自分の天地創造、その維持の業を並べて「お前はこんな事ができるか」とヨブに突きつける。度量を定め、海を閉じ込め、地の縁から悪人を振り落とし、雪や雹を倉に蓄え、雷雨の通り道を作り、星座と十二宮を作り、動植物の命を作り・・・・・・・・
それは長々と続くが、神の言う事は結局エリフの主張の域を出ていない。
「神に責任を負わそうとするのか」
「神を非とし自分を是とするのか」
神は天地創造の業の壮大さを述べる事で、人間の基準と神の基準の想像を超える格差を示した。この問題については前回僕はもう暫定的な結論を出した。
神と人間の格差が如何に大きくても人間の自然な感情と神の摂理が断絶する事は神義論の自滅である。
僕は予定説も認めない。
僕はhuman natureの延長上にある神義論を探さねばならない。
しかし神は最後に友人の一人、エリパズに向かって言う。
「私の怒りは貴方と貴方の2人の友に向かって燃える。貴方がたが、私のしもべヨブのように正しい事を私について述べなかったからである。」
ここで僕は訳し方の問題で「ヨブと同じ様に友人も間違っている」という意味なのか、「ヨブが正しく友人が間違っている」という意味なのか疑問に思い様々な訳を読んでみたが、どれも後者の意味で訳していた事に驚いた。
神はヨブの傲慢を問い詰めた。しかし最後の最後には友人ではなくヨブの方が正しいとしているのである。( ここでもし神が3人の友人の言う事が正しいとしたならヨブ記は全く味わいの無い物語になっていただろう。)
ヨブは苦難の中で神の公正を疑い、神の答えを欲し、泣き叫んだ。
人間は苦難の中でこそ最も強く神を求める。ヨブの苦痛と叫びの中に神は真実を認めたのだ、というのが僕の解釈である。
友人達は神の全知全能に何の疑いも抱かず、僕の言葉で言えば「運命の不平等は存在しない」として、神の義を疑うヨブを非難した。
しかし神はむしろ人間に神の義を疑う事で苦しむ態度を求めているのだと考えざるを得ない。
「運命の不平等」説に対する強力な反論は「生まれつきの悪人はおらず、そうなったまでの苦痛と幸福を一生を通じて見ればバランスが取れている」というものだ。
悪人も初めから悪人だったわけではないのは確かにその通りである。そうなるまでには幼児時代に虐待された経験が有ったかもしれず、悪い男に何度も騙されたかもしれない。学校も行けないほど貧しかったかもしれない。親が麻薬中毒だったかもしれない。
善人も同じである。ヨブが敬虔な人となり得たのは親の教育かもしれないし何不自由ない環境で愛情たっぷりに育ったせいかもしれない。
そうすると一生の間で経験する幸と不幸、快感と苦痛は意外と平等なのではないか? という考えに傾きかける。
しかし生まれつきの病気で亡くなる人や一生苦しむ人を見ればやはり運命の不平等は存在すると考えるしかない。一方で上に書いた様にその不平等を緩和しようとする力も働いている様に見える。
善人と悪人を紙一重の差で分離し、次第に天使と悪魔の様な格差にまで拡げていく過程は幾つかの重大な問題を提起している。
そもそも人間の性格は遺伝と環境で決まるとしたら本人にどこまで責任を負わす事ができるのか?
シリアの貧困家庭で育ち、泥棒か戦闘員になる以外に生きる道が無く、自動的にジハード主義者になっていく青年の人生を誰が裁けるだろうか?
パウル・ティリッヒが指摘する様に、「罪はまず人間の道徳的責任であるが、それでいて常に悲劇的・運命的要素がつきまとうのである。誰の責任とも言えないもの、運命としか言いようのないものが絶えず伴うのである。」(近代キリスト教思想史、新教出版社 p.78)
ゾライズムは科学の体裁を纏っているが、実は「神の法と人間の自由意志」という神学的問題の再現である。
これに対してマクロ的には非常に長い目で見ると因果応報が成り立っていると僕には思える。ただし応報は個人単位ではなくもっと何百年という巨視的な国家、民族、文明のスパンで成り立っているようだ。神は細部まで気にかけないのだ。
古代ローマの帝国主義と奴隷制は最後には帝国の分裂、解体という裁定を下された。ゲルマン民族が如何に野蛮に見えても神はローマの圧政よりはマシだと判断した。秦の始皇帝が如何に残酷に見えても長い戦国の継続よりはマシだと天は判断した。
マルクスの土台・上部構造論と同じくらいにアウグスティヌスの歴史神学、マキャベリの「ヴィルトゥとフォルトゥナ」論、十八史略の帝王学もまた真実である。民主主義が常に正しいとは限らず独裁が必要な時もある。極端な倫理主義も極端な弱肉強食も長くは続かず必ず反動を呼ぶ。歴史は螺旋状に進み、循環しながら進化する。
歴史の長い時間を観察する時、宇宙の摂理は人格神の比喩より生命体の比喩の方が説明原理として優れていると僕はどうしても考えてしまう。因果応報に非常に長い時間がかかるのはそれが鈍重な物質原理を介して働くからだというスピリチュアリズムの説明はかなりの説得力が有る。無機物の法則を人倫の法則に方向転換するには膨大なエネルギーが必要だ。
宇宙の摂理を生命に喩える事は決して唯物論に近づく事ではない。生物の発生や進化はこの21世紀になってもなお、化学的連鎖反応よりも目的論によって上手く説明できる。これは生命の原理が超自然のものだからではないだろうか?
結局僕はやはり「神は細部に宿らない」という結論を出す。因果応報は何世紀ものスパンでは概ね成り立っているが、個人のレベルでは成り立たない。それは「宇宙の摂理が人格的な神ではなく生命体の意志だ」と考える方法と、「神は細部を敢えて人間の自由意志に任せたのだ」と考える方法が有る。
個人の因果応報が自由意志に任されているとはどういう事だろうか?
それは社会の不平等だけでなく運命の不平等も人間の力で解消していくように期待されているという事である。例えば生まれながらに重い障害を負った人でも健常者と同様の幸福を味わえる機会に恵まれる様に、それが完全には無理だとしても少なくともその方向へ社会を変えるように人間は促されているという事だ。
これはさらに分かり易く言えば宇宙の意志はわざと運命の不平等を作る事で人間に諦めとニヒリズムを促しているのではなく、むしろ人間の力で運命の不平等をなくす努力をする様に促しているという事だ。これはシュタイナーの「いかにカルマは作用するか」(みくに出版)に展開されるカルマのポジティブシンキングと同じである。
「神が全世界を作った」という前提で歴史は説明し切れるだろうか?
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、ヒンドゥー教、仏教も悪魔の存在を認める。それは「神は二人いる」と言うのと同じである。また悪魔は存在しないと主張する教派でも「人間の心の中に善悪二面性が有る」と考えるなら、それもまた同じ事である。人倫の問題を考える時、「全知全能の神」の一元論より「この世は善神と悪神が闘いの決着をつける為に生まれた」というゾロアスター教的二元論の方がこの世を説明し易いと僕は確信する。
ユダヤ教やキリスト教の様に「人間の心の中では神と悪魔が戦っているが原理的には善と悪ははっきり分けられる」と考える宗教が有る一方で、天台哲学の様に「本来、善の中に悪が有り、悪の中に善が有る」と考える宗教もある。どちらが正しいのか今の僕には分からない。
仏教ではそもそも絶対神を認めない。絶対神が存在しない場合、(証明はできないが結論だけを言えば)神義論は「感情のバランス」の問題に縮小する事になる。法や裁判制度が無ければ被害者と加害者の話し合いで解決するしかなくなるのと同じ理屈である。
殺人・傷害事件に対する償いも「恨みと謝罪のバランス」の問題に変化する。加害者が反省し被害者が加害者を許せる気持ちになれば、客観的に運命の不平等が有ってもそれで一件落着とするわけだ。仏教的神義論は「諦念」に近づく。
これも一つの説明原理となるだろう。
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当たり前の事だが、神義論は考えるほど問題が拡がっていく。今回はこれで一応終わるが、まだ残された問題がたくさんある。そこで神義論の書庫を独立させ、今後も折に触れ深めていく事としたい。
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