戦前の日本の精神構造が「欧米から輸入された近代」と「前近代的な伝統文化」の二重構造であった事は多くの人に指摘されてきた。
この二重構造は形を変えて戦後、現代まで続いていると思われる。
藤田省三は「天皇制国家の支配原理」でこの二重構造を「ヨーロッパ絶対王政的な近代の支配原理」と「底辺に残る農村共同体の原理」の確執と癒着として分析した。神島二郎はこの「異質な二原理の確執」を庶民の精神構造の面から分析したかったのだと思われる。
しかし自然村的秩序や都会の中間層の精神構造が詳しく分析されている反面、彼の言う「武士的エートス」の実態の分析、そして「自然村的秩序と武士的エートス」という二つの前近代と「資本主義、国民国家という近代」の矛盾が詳しく分析されていないため、肝心の「欲望自然主義」の発生する過程、その必然性が今ひとつ不明瞭である。
欲望自然主義は日本の伝統文化の中にその源泉を見いだせると僕は考えるが(天台本覚論と本居宣長、井原西鶴などの近世合理主義)、神島氏はそれには言及していない。
そこで僕なりに問題を整理してみよう。
「儒教的武士道と農村の秩序」という二つの伝統的精神構造と「資本主義と欧米型民主主義」という二つの近代的精神構造の間にどのような潜在的矛盾があるだろうか?
具体的に6点挙げてみる。
(これは思いつくままに挙げたもので、全く雑なものである。今後、作家や思想家を具体的に読む中で検証、整理されていくべきものと考えている。)
(1)道教的「無為自然」と近代的「作為」
(2)儒教的倹約の道徳と資本主義の拡大再生産
(3)儒教の「報恩」とキリスト教の「隣人愛」
(4)儒教的家族国家と近代のレッセフェール、政教分離
(5)滅私奉公とアダム・スミス的「利己主義の効用」
(6)共同体の義理人情、情動的統合と資本主義の打算的人間関係
(1)道教的・国学的「無為自然」と近代的「作為」
価値が客観的な所与として与えられるゲマインシャフトの論理の極限を示しているのが老子の「無為自然」である。「天下は神器、為すべからず執るべからず」と作為的、主体的な関与を否定し、「常に民をして無知無欲ならしめ」と愚民政治を是とする。欧米型民主主義の全否定である。
これと同じ発想は近世の国学にも見られる。賀茂真淵は「少も物学びたる人は人を教え、國を経済とやらむをいふよ」と儒学の「治国平天下」を嘲笑し本居宣長は「すべて下たる者は良くても悪しくても、その時々の上の掟のままに従ひ行ふぞ即ち古への道の意には有ける」と庶民が政治を議論する事を非とした。宣長が特に荻生狙徠を目の仇にしたのも同じ理由からである。庶民が政治を論ずる事は宣長にとっては「ことあげする」事である。
さらに中沢新一氏によればこれは新古今和歌集や金春禅竹の能の哲学などに見られる「極限的な非政治性」にまで遡れる。
儒教は老子や本居宣長ほど極端ではないが、やはり「論語」でも「其の位に在らざれば、其の政(まつりごと)を謀らず」と身分、職分に応じた関与を説き分限を超えた言動を戒めている。
これと対照的にルソーの「社会契約論」では個人が全面的に関与する直接民主主義が有って初めて愛国心が生まれてくる事を説いて、民主主義とナショナリズムの内的連関を説明する理念型となっている。
(2)儒教的倹約の道徳と資本主義の拡大再生産
倹約の奨励が景気を悪化させるのは現代でもよく目にする光景である。江戸時代でも寛政の改革が失敗しかえって田沼意次の賄賂政治が効を奏したのは彼が拡大均衡を目指したからだ。
「所得決定における加速度理論」に象徴される様に、資本主義は常に拡大していないと成り立たないのであり、単純再生産の資本主義はあり得ない。
資本主義では常に「欲を拡大していく」事が成長の前提になるが、生活必需品を求める「成長期の資本主義」は相対的に健全であり、現代の先進国の様な「本来は必要ない物を宣伝によって欲を喚起して売る」資本主義はより腐敗の度合いが深刻になる。
(3)儒教の「報恩」とキリスト教の「隣人愛」
儒教的倫理の原理は「報恩」にある。従って恩を受けた親、主君への恩返しとしての忠が核心であり、外へ行くほど同心円状に薄くなる愛情のグラデーションを作る。これがキリスト教の「隣人愛」、フリーメイソンの「博愛」と相反するのはよく指摘される所であり、この差が現代でも「根回し」と「公的議論」、「談合」と「競争入札」、「個人的つきあいによる人物評価」と「客観的基準による格付け」などの原理的対立の底流となっている。
中国でキリスト教の「隣人愛」に近い主張をしたのは墨家の「兼愛」だが、孟子はこれを「自然に反する」として否定し、「偏愛」を説いた。
(4)儒教的家族国家と近代のレッセフェール、政教分離
中国、朝鮮、日本の伝統社会ではおおむね家族の倫理がそのまま拡大して国家の倫理となる「家族国家論」を理想としてきた。それは「大学」の「修身 斉家 治国 平天下」にその論拠が有り、これは近代ヨーロッパの宗教戦争と市民革命の成果である「権力は個人の思想に介入しない」中性国家の原理、産業革命後の「国家と市民社会の分離」「経済に対する政府の不介入」のレッセ・フェールの原則とも真っ向から衝突する。
(5)滅私奉公とアダム・スミス的「利己主義の効用」
これは神島二郎が「マイナスの私を公につなげる日本とプラスの私を公につなげる欧米」という言葉で表していた問題である。
滅私奉公の観念はヨーロッパでも封建時代には見られたものであり、それが最終的に崩れたのはアダム・スミスによって「利己主義が国富を増やす」事が証明されてからである。
しかしこれは大変難しい問題であり、アダム・スミスの「国富論」が「道徳感情論」とセットになっているように、完全な欲望の放任は現代のヘッジファンドを見れば分かる通りかえって市場原理を破壊するのであり、欲望が如何にコントロールされるかが問題となる。
(6)共同体の義理人情、情動的統合と資本主義の打算的人間関係
これはゲマインシャフトの価値がゲゼルシャフトの価値によって破壊されていく、という事で西洋東洋に無関係だろうと思う。
ゲマインシャフト的紐帯が全く無くなる事に人間は堪えられず、労働組合や生協、文化サークル、ネットのSNSなどの形で新たなゲマインシャフトが常に現れ、バランスを取る事になるのが一般的である。
ただし近代日本の特殊な点は企業や国家の中にまでゲマインシャフトの原理が混入し昭和恐慌以後の危機の時代では意図的にそれが強調されていった点である。
これらは今後近代日本思想史を読む上での着眼点となる。
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