前回の自己紹介では「思想史と神秘主義の総合としての生命の弁証法をめざしている」事を書いたにとどまった。なぜ思想史と神秘主義が統合できると考えたのか、その点を説明する事でこのブログがより多くの読者に理解されると思う。


僕が「思想史」 と呼んでいるのは主にマックス・ヴェーバー、エルンスト・カッシーラー、カール・シュミット、フランツ・ボルケナウの方法、及びこの4人に大きな影響を受けている丸山真男学派の方法である。それはフランクフルト学派のマルクス主義者であったボルケナウを除けばマルクス主義の「イデオロギー批判」「イデオロギー暴露」という組織的な方法論に対する根源的批判を含んでいる。

マルクスの「イデオロギー暴露」 は相手の主張が特定の階級的利害に基づいている事を暴露する方法であり、これは丸山氏が言う通り、極端に言えば「彼奴は口ではこう言っているが、腹の中ではこんな事を考えているのだ」という外側からのケチツケに陥りがちであり、少なくとも「相手の論理の中に一度内在してその論理を内側から批判する」ソクラテス〜トマス・アクィナスの弁証論の伝統から外れている。

丸山学派の方法はこれに対し「制度を支える精神構造を明らかにする」方法であり、吉本隆明の 「丸山真男論」の言い方を借りれば政治や社会の構造を「内側から照射する」方法を切り開いた画期的なものである。


********************************



「社会の構造を内側から照射する」

「制度を支える精神構造を明らかにする」

何故こんな事が可能なのだろうか?  ここが僕の跳躍点である。

それは社会制度の論理構造と個人の精神構造の間に相似象(大宇宙と小宇宙の照応・一致)が成り立っているからこそ可能なのではないだろうか?


しかし此処に挙げたヴェーバーとカッシーラーは新カント派、ボルケナウはマルキスト、シュミットも唯物論的であり丸山学派もその点は同じで神秘主義的方法など認める筈もない。

従ってヴェーバーは予定説が人々に与えた壮絶な孤立感、そこから「自分は救われる側にいる兆候を確かめたい」という「確証モチーフ」などの難しい心理学的迂回路を通して、またボルケナウは思想家の出身階級を特定し、その階級の経済環境、そこから生まれる思想的傾向という迂回路を通して初めて思想的平面と政治経済の平面が繋がるのである。

ヴェーバーやボルケナウの素晴らしい分析は相似象を使う事でもっと分かりやすく簡単な説明にできるはずだ、というのが僕の確信である。


僕の「比較文化の座標軸」のテーマにある方法は全て「社会の構造」であると同時に「人間の精神構造」でもある。それは相似象を認める事によって初めて可能になるのだ。

例えばヴェルフリンの記事の④で書いた「反近代の精神構造と近代の精神構造」である。   
http

4B3C6F36-DFEC-4A08-B22C-D1E9835B0650

これをルネサンスとバロックに当てはめたのは間違いだったかもしれない。これを「古典派とロマン派」に拡大すれば寧ろ古典派が近代、ロマン派が反近代に当てはまる。

しかしこの座標軸それ自体はカッシーラーの「認識問題」のテーマを拡大したものであり、その普遍性は今も確信している。


それは中世的多層社会に対する絶対王制の支配構造であり、同時に物々交換に対する貨幣制度の論理でもあり、さらにカトリックに対するプロテスタントの精神構造でもあるのだ。