<神学的問題 聖典シヴァ派のmala>
前に書いた様にシヴァ派ではカルマだけが個我の汚れではなくより根源的汚れとしてmalaを考えるが、聖典シヴァ派ではmalaが物質性のものである事が強調される。
これは不浄は全てプラクルティの開展からくるというサーンキャ説の継承である。
これによってプルシャ、シヴァの純粋性を守る事ができる。
しかし同時にこれにより輪廻転生の肯定的解釈が可能となるのである。
実はこの輪廻転生の肯定的解釈の端緒は既にサーンキャに有る。少し引用すると
このプラクルティによってなされる創造活動は各個体のプルシャの解脱を目的とし(従ってそれはプラクルティ)自身のため(に行われるか)のようであるが(実際は)他のもの(すなわちプルシャ)のためなのである。(サーンキャ・カーリカー 56)
舞妓が観客に(自分の舞踏を)見せ終わると舞踏をやめるのと同じように、プラクルティはプルシャに自らを示し終わると活動をやめる。(サーンキャ・カーリカー 59)
ここには「錯覚による輪廻」ではなく「解脱のための輪廻」「malaの熟成、廃棄のための輪廻」というシヴァ派的なモチーフの端緒が見られる。汚れが物質性のものだからこそ物質世界で輪廻する事で汚れを熟成させ落としやすくできるのだ。
しかしシヴァの精神的純粋性を守った代わりにシヴァの静的性格という点もサーンキャから継承する事となりシヴァと個我を仲介する力としてのシャクティが必要となる。
これはプラトンが静的なイデアから具体物が生ずる説明として動力因としての神、デミウルゴスを想定せざるを得なかった事を連想させる。シヴァ神は動力因だが質料因のマーヤーには直接介入しないという曖昧な性格を持つ。
また神と無関係な原質(サーンキャではプラクルティ、シヴァ派ではマーヤー)の存在を認めることになり「自在神」「主宰神」(イーシュヴァラ)の名にそぐわない事になる。
サーンキャ的二元論は厳密には主宰神の観念と矛盾する。
<カシミール派のmala>
これに対し不二一元論のカシミール派ではマーヤーも個我も同じシヴァから生じたのであり、malaも個我とシヴァの同一性を知らない無知によるのである。従ってこの無知を滅し個我とシヴァの同一性を「再認識する事」が解脱となる。これはほぼシャンカラの説と同じである。
ただしこの「無知」の質が問題である。これは普通の無知と違ってより根源的な無知であり、意識の自己限定から生ずる一種の不充足感、対象を享受しようとする欲望だと言う。恐らく普通の無知とするとヴェーダーンタ的思索で消滅する事になりヨーガやシャクティの意義がなくなってしまうからだろう。以上はこの資料に依った。
この資料は聖典シヴァ派の二元論では「何故ある個我は解脱し他の個我はできないのか」という神義論において難点があり、カシミール派の一元論は「個我が神の自己限定」であり自己限定の理由は「人間の理解を超えたもの」「神の戯れ」であるので神義論的問題を回避できるとしているが、僕には「運命の不平等」という問題の解決の難しさは一元論も二元論も全く変わりないと思われる。
これは仏教でも「すべての衆生が成仏できるか否か?」という相似した問題となって現れる。天台宗(法華一乗論)の最澄と法相宗(唯識派)の徳一の議論である。
<バクティ運動の歓喜と神学>
ここでインド的思惟のヨーロッパとの大きな違いをもう一つ付け加えねばならない。
タントラでは神と人間の距離がキリスト教のようなペシミズムには繋がらないのである。
原罪論を核心とするキリスト教では神と人間の距離はほぼ例外なく性悪説となる。それは神の子が十字架刑になったという悲劇によって裏付けられている。
それに対しインドのバクティ運動は熱狂と歓喜に満ちている。シヴァ派より二元論的なヴィシュヌ派の方がむしろバクティ運動と結びついている。
インドでは神が人間から遠くなればなるほど引き裂かれた恋人の様に神を熱狂的に求める。この点ではヴェーバー〜ボルケナウ的な理念型は修正しないとインドには適用できない。
何故シヴァ信仰やヴィシュヌ信仰はこんなにも歓喜に溢れているのだろうか? その理由は幾つか考えられる。
① 一つはバクティの拡がった経過から説明される。バクティの起源はバガヴァッド・ギーターの成立したB.C.2世紀にまで遡れるが、大衆的に広まったのは6世紀の南インドで始まったバクティ運動による。それは哲学的知識に偏っていたバラモン教学に対しては愛と信仰を、達人的修行を求めるヨーガに対しては庶民にも可能な易行を対置した。
その意味では大乗仏教の運動や平安末期の浄土信仰の流行とも似ている。(そうするとバクティをヴェーダーンタに取り込もうとしたラーマーヌジャは浄土信仰を真言宗に取り込もうとした覚鑁に似ているかもしれない。)
バクティにおける「感情の横溢」は「論理的に突き詰める事」より「帰依の感情」を重視する事となる。
② もう一つ考えられるのは現世の苦はカルマによるものという観念が大衆の間に浸透していて「運命の不平等」とは捉えられない、或いは「社会的不平等」が「不条理」とは感じられないという事もあるかもしれない。
いずれにせよインドでは神義論の問題がヨーロッパほど突き詰めて追求されないようだ。キリスト教では神と人間の距離を強調する事、自力の否定は「利他的行為」や「神への寄進」などまで徹底的に否定されたがインドのバクティではむしろその二つが中心である。
そしてこのバクティの歓喜に論理的親近性を持つのがシャンカラのブラフマンなのである。シャンカラによればブラフマンは「有(サット)」「知(チット)」「歓喜(アーナンダ)」の三つの基本的性質を持つ。
サーンキャのプルシャはこの歓喜を否定する。プルシャはあくまでも静的、寂滅的で仏教のニルヴァーナの如きものである。
このサーンキャとヴェーダーンタの差が聖典シヴァ派とカシミール・シヴァ派のシヴァ神の違いにも現れている。
<クンダリニー・ヨーガの歓喜と肉体肯定>
「唯識論とサーンキャと発生学」で書いた様に、二元論は生物の発生における誘導現象や世界の生成、発展などを説明する弁証法と論理的親和性を持つ。
しかしこれは追加が必要だ。生命の弁証法は出発点は二元論的ではあるがペシミスティックではいけない。二元が一元に統合される時の歓喜を伴っていなければならない。
この歓喜を生理的に経験するのがクンダリニー・ヨーガである。
クンダリニーは尾骶骨の内側にトグロを巻いて眠る蛇である。クンダリニー・ヨーガはこの眠っている蛇を目覚めさせ、脊椎の中を通る霊的器官であるスシュムナー管を通って頭頂から突き抜けさせる。クンダリニー覚醒の方法は様々だが多くは一定のアーサナと激しい呼吸法とバンダという身体の一部を引き締める技法の組み合わせである。
11世紀にゴーラクシャ・ナータがハタヨーガを体系化した時には既にクンダリニー・ヨーガの技法の核心的部分はできていたはずだ。体内の一点に意識を集中するダーラナー、息を止めるクンバカ、象徴的な意味を持つ言葉マントラなど部分的な行は既に古典ヨーガにある。しかし古典ヨーガのクンバカは苦しくならない程度のクンバカだ。クンダリニー・ヨーガではこれをわざと苦しくなる様に極端な所まで行うのだ。
これは仏陀やマハーヴィーラの時代から沙門によって行われていた苦行である。仏陀は最後に苦行を否定して瞑想で悟りを開いたが、恐らく苦行と瞑想を同時に実行しようとしたヨーギも多く、そんな中からクンダリニー・ヨーガが生まれたと推測できる。
クンダリニー・ヨーガはこの様な苦行を伴うが、多くのヨーギの説明によるとアナハタ・チャクラが開く時とサハスラーラ・チャクラが開く時、それを補って余りある歓喜と恍惚を経験するらしい。その歓喜は「頭頂からアムリタが落ちる様な強烈な快感」と表現される。
クンダリニー・ヨーガは単に歓喜・恍惚を経験するというだけでもない。そこに高度な象徴体系を駆使して肉体を神の住まう神殿と化す。セーン氏の言葉を引用する。
>ナータ、ヨーガ、シッダーチャーラの信徒はさらに歩を進め、すべての宗教的神秘を人間の肉体そのものの中に見出そうとした。彼らは、人間の神経系のなかに太陽と月の流れを考えてそれをイダーとピンガラーと呼び、この流れを結合することによって、身体にあって精神活動の中心的働きをしている複数のチャクラを開くことができると考える。
この霊的生理学の思想は大変大きな転換だ。仏教やジャイナ教は肉体を敵視し肉体的な一切を滅却する事に専心する。これはサーンキャ的二元論と親和する。それに対しタントラは逆に肉体を神聖な物と見るのだ。これは心身並行論と親近性を持つだろう。
クンダリニーの正体は何だろうか? それは生命の根源的エネルギー、或いは性的エネルギーと関係すると説明される。しかしクンダリニーは脊椎の中を上昇しなければならない。では無脊椎動物にはクンダリニーは無いのだろうか?
クンダリニーが脊椎の霊的意味と関係するならば、それは脊椎動物を進化させてきたエネルギーではないだろうか?
<マントラと象徴体系>
クンダリニーを覚醒させる事でチャクラが見えるようになる。チャクラは神が宿る霊的センターである。その色と形の見え方は人によって少し差があるが、概ね似通っている。

シヴァ派ではこのチャクラにマントラを置き、さらにチャクラがマントラと同一であると観想する事で全身がマントラと化すると言う。
10世期のカシミール派のグル、アヴィナヴァグプタの「タントラ・アローカ」は次の様に主客一致の世界を語る。
自らの心臓において、自性の光輝を火、太陽、月の結合として観想する。火は認識主体、太陽は認識手段、 月は認識対象であり、このそれぞれが、創造、 維持、還滅、不可言の4面を持ち、結局3×4=12の光線を持ったチャクラとして観想される。このようなバイラヴァの火を、目などの感官を通じて外部の対象に投影し、その対象が創造、維持、還滅の過程によってこのチャクラと同じものであると観想する。そして外的対象を拡大することによって、全世界も同じものとして観想する。
中沢新一氏の「虹の階梯」では彼がチベット密教の修行をした時の体験が書かれている。それによれば胸のアナハタチャクラにある光の滴を頭上の阿弥陀仏へ向かって飛ばす観想をする。一定のマントラを唱えた後「ヘック」という掛け声と共に光の滴を頭上に飛ばすのである。(恐らくこのヘックは息を急激に吸って止め、クンバカと同時にバンダを行うのだろうと想像される。)これを数時間、何日も行うと頭が割れるように痛くなり頭頂にブツブツができたと言う。頭上の阿弥陀仏は真っ赤に燃えていたそうだ。
これらはクンダリニー・ヨーガが高度な象徴体系と融合した例として非常に興味深いものがある。
霊的生理学は少なくとも従来の古典ヨーガによる内観法、バラモン教の儀礼、解剖学的知識の3つが融合している。
これでカシミール派の中でもクラ派と不二一元論の繋がりの秘密が少し明らかになったと僕は考える。 肉体を嫌悪する古典ヨーガから肉体を肯定するクンダリニー・ヨーガへ。傍観的なプルシャから歓喜に満ちたブラフマンへ。哲学的思索から熱狂的バクティ運動へ。この三つが相互に増幅し合っているのである。
コメント
コメント一覧 (3)
現代のような物質至上主義の時代があれば、かつては精神重視の時代もあったのかもしれないと思います。
その時代に生まれていれば、僕みたいなのもマサチューセッツ霊科大学に入れたかもしれないのに笑。
クンダリニーのエネルギーが脊椎動物を進化させてきたエネルギーなのでは、という提起は面白いですね。だとしたら、無脊椎動物にはどういう霊的な身体性があるのかも気になるところです。
ミトラ
が
しました