中国山水画についての記事を何回かに分けて書こうと思う。
1回目は五代十国から北宋時代の山水画の歴史を見渡し、それと華北、江南の風土との関連に焦点をあてる。
2回目は南宋から元、明時代の山水画の変容を概観しながら、山水画と士大夫の階級意識、及び儒教、道教、仏教(特に南宗禅)との関連に焦点をあてる。
僕にとって山水画は中国武術と同様、初心であり、まだ見方が浅い事は承知しているが、これまで北宗画=院体画=花鳥図、南宗画=文人画=山水画などという間違った見方をしていたので、そこからはかなり見方が深まったつもりである。間違いに気づかせてくれたブロ友のひかりさんに感謝する。
******************************
華北山水画の原点となるのは五代十国時代の荊浩と李成である。
荊浩(けいこう)は唐末の動乱を避け、太行山洪谷に隠棲し、唐時代の宮廷画家とは違う「隠居文人の山水画」というパターンの原型となった。
彼は呉道玄の筆法と項容の水墨の技術を総合し、その後の華北山水画のほとんどの画家が模範とした。
この荊浩の画風は関同から北宋時代の范寛に継承される。
范寛「渓山行旅図」
李成は荊浩に師事しながら、垂直的な荊浩の構図に対し「平遠」と言われる水平的な構図、「寒林」と言われる士大夫の不屈の精神を表す松、「淡墨」と言われる薄い墨を何重にも重ねた濃淡法など、荊浩とはまるで違った作風を生み出した。
下の図は「喬松平遠図」のごく一部である。全体は非常に横長でここには示し切れない。
荊浩の隠れ住んだ太行山脈に対し、これは山東省の黄河沖積平野の風景である。荊浩に較べて非常にリアリスティックで繊細なタッチを持っている。一般に海洋性気候では神経が繊細になり、大陸性気候では神経が図太くなると言われる。遠景のぼかし方が何となく日本画に似ていないだろうか?
李成の、仕官できなかった不遇を詩画や酒で紛らし趣味人として生きる様は後に米芾によって「俗」と批判されるが、荊浩と共に華北山水画の原点となった。
******************************
これに対し江南山水画の原点と言われるのが李成と同時代の董源、北宋時代の巨然の二人である。
董源は南昌付近で園林の管理の仕事をしていたらしく、江南の比較的緩やかな丘陵と水郷地帯の農民、漁民の生活を愛した。
董源「龍宿郊民図」
華北の乾燥した黄河大地と江南の亜熱帯モンスーン気候の湿潤な空気の差がここに現れている。その風景は華北山水の神仙境の様な人を寄せ付けないものと好対照である。
乾燥気候では空気が明晰であり、風土論で書いた様に人間の思考も直線的である。そして性格は攻撃的、威圧的になりやすい。華北山水画の見る人に恐怖感を与える様な岩山は、単なる風景ではなく精神のあり方も示しているように思われる。逆に江南山水画の丸みを帯びた丘陵は穏やかな性格を連想させる。
巨然は南唐、開元寺の僧だったが、董源に山水画を学び、南唐が滅ぶと北宋の首都、開封の画院へ入った。僧の院体画家である。
下の「雪図」を見ると、華北の険しい山の表現を受け継ぎながらそれがデフォルメされ観念的な表現になっているのが分かる。「写実から写意へ」という後の文人画の傾向が既に現れている。近景は生活感があり、その雰囲気の穏やかさは江南を思わせる。
郭熙は五代から北宋の山水画の集大成と言われる。11世期後半の神宗時代に70歳過ぎて翰林学士院に招待され、宮廷画家として活躍した。
政界では王安石が参知政事(副首相)に抜擢され、新法を制定し、革命とも言える大改革に乗り出した時期である。
郭熙の画風は荊浩、関同の高遠、李成の平遠、范寛の近景、中景、遠景の三分法を全て総合し、さらに巨然から江南山水画の要素も継承している。
郭熙「早春図」
ここに山水画は一旦その完成を見た。
華北の乾燥した黄河大地と江南の亜熱帯モンスーン気候の湿潤な空気の差がここに現れている。その風景は華北山水の神仙境の様な人を寄せ付けないものと好対照である。
乾燥気候では空気が明晰であり、風土論で書いた様に人間の思考も直線的である。そして性格は攻撃的、威圧的になりやすい。華北山水画の見る人に恐怖感を与える様な岩山は、単なる風景ではなく精神のあり方も示しているように思われる。逆に江南山水画の丸みを帯びた丘陵は穏やかな性格を連想させる。
巨然は南唐、開元寺の僧だったが、董源に山水画を学び、南唐が滅ぶと北宋の首都、開封の画院へ入った。僧の院体画家である。
下の「雪図」を見ると、華北の険しい山の表現を受け継ぎながらそれがデフォルメされ観念的な表現になっているのが分かる。「写実から写意へ」という後の文人画の傾向が既に現れている。近景は生活感があり、その雰囲気の穏やかさは江南を思わせる。
郭熙は五代から北宋の山水画の集大成と言われる。11世期後半の神宗時代に70歳過ぎて翰林学士院に招待され、宮廷画家として活躍した。
政界では王安石が参知政事(副首相)に抜擢され、新法を制定し、革命とも言える大改革に乗り出した時期である。
郭熙の画風は荊浩、関同の高遠、李成の平遠、范寛の近景、中景、遠景の三分法を全て総合し、さらに巨然から江南山水画の要素も継承している。
郭熙「早春図」
ここに山水画は一旦その完成を見た。






コメント
コメント一覧 (1)
ミトラ
が
しました