これまで分かったのは次の繋がりである。
ドラヴィダ様式・・・聖典シヴァ派・・・サーンキャ的二元論・・・プルシャの傍観者性
アーリア様式・・・カシミール・シヴァ派・・・不二一元論・・・ブラフマンとクンダリニーの歓喜
前に「タントラ的なものはヨーガによる内省的修行だけでは成立せず、北方のアーリア文化の何かが合流しなければならない」と書いた。それはクンダリニー・ヨーガの歓喜とブラフマンの歓喜とバクティの歓喜の三者の相互影響が全てなのだろうか?
では僕がアーリア様式に「ディオニュソス的エロス」を直感したのは勘違いだったのだろうか? いや、話はそんなに単純ではないと思う。
芸術表現の中に主観的な意図とは違った深層心理が現れる事はよくある事だ。ロマネスクやゴシックの怪物も作者の意図としては一元論的なキリスト教信仰によって古来の幻想的存在が支配された事の表現だが、そこに「意図せざる」マニ教的二元論が現れているのである。
もう一度カジュラーホ寺院群の彫像をよく見てみよう。
女性像は極端なほど腰の捻りを強調している。もちろんこれはエロティシズムなのだが、これを遠目で見ると何やら動物の内臓を連想させる不気味な物に見える。

誇張された不規則な曲線は「性的なイメージ」と「動物の内臓を連想する血と死のイメージ」を繋ぐものだ。
主観的には歓喜である。しかし遠目の視点からは不気味なものに見える。
後者が勘違いではない事はカーリーやドゥルガーのこのイメージを見れば分かる。

またタントラではこんな図がイメージされる事もあるようだ。
シヴァ神妃、デーヴィーが首を斬られ、噴き出す血をデーヴィーの分身である二人の女と、さらに何とデーヴィー自身も飲んでいる。しかもこの戦慄する血のイメージが下の性的イメージと一緒になっている。
カジュラーホ寺院群には彫られていないがこういう血と死のイメージもインドの伝統なのだ。カジュラーホ彫刻の不気味な側面がこの「残虐なエロス」と何らかの関係がある事は否定できないのではないだろうか?
しかも僕の直感ではこの残虐とエロスの同居は動物の「すべすべした皮膚とドロドロした内臓」の同居と関係あると思われるのである。
残虐なエロスと言えばやはり想像するのは何と言っても古代マヤ、アステカの供犠だろう。
ヨーロッパでこれに相当するのが(東方から輸入されたものだが)ディオニュソスとキュベレーである。
この悪魔的残虐とエロスの内的連関は既にバッハオーフェン、ノイマン、ニーチェ、バタイユなどを通して考察してきた。
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15605086.html
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15703498.html
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15704087.html
簡単に結論を書けば供犠には四段階の根拠が想定できる。
① 殺・食・性の一体となった野獣の本能
② 神との取引(互酬的交換)
③ バタイユ的な「解体のエロス」これは生贄との心理的同一視を伴う。
④ 女性性を侵された大地母神の復讐
これに下のロマネスク美術研究の成果を参考にしてさらに付加、修正してみたい。
https://www.karakusamon.com/2014k/romanesque_ogata.html


コメント
コメント一覧 (3)
ミトラ
が
しました
これは、<生と死>の関係にも通じるのではないか、なんて思いました。
生の中に死があり、死の中に生がある、みたいな(;^_^A
ミトラ
が
しました