
ブロ友のピリア氏が「天気の子」について6回にわたって解釈を書いている。
https://inspiration.hateblo.jp/
たまたまYouTubeで全部見る事ができたので僕もじっくりと鑑賞させてもらったのだが・・・・・
僕はナウシカや手塚治虫の火の鳥は手放しで絶賛するのだが、これは正直言ってあまり感動しなかった。
(ピリアさん、ごめんなさい)
何故か? それを今回は考えてみたい。
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この作品は色々な古代的・神話的テーマを扱っている様に見える。例えば
① 雨乞い・日照り乞いのシャーマン
② 天に祈る儀式での供儀・犠牲
③ 異界から人を取り戻す事
などである。
陽奈は晴天を呼ぶ事のできる現代のシャーマンだ。シャーマンはこの世と異界を往復できる存在で、その意味ではナウシカにも似ている。ナウシカにおける異界とはもちろん蟲たちの支配する腐海である。ナウシカは蟲たちと心を通じ合わせる特殊能力を持っている。それは子供の頃から周囲の大人達が忌み嫌う蟲を可愛がってきた長年の努力によって形成されたものだ。
シャーマンは異界へ旅立ち、その力を借りて来る。しかしそれには犠牲が伴う場合が多い。ノイマンによれば大地母神は原理的には全て生贄を要求する。http
それは狩猟・採集が大地の物の一部を刈り取る事だからだ。大地の秩序を乱した事は生贄によって補償されねばならない。
狩猟・牧畜社会での供儀は生贄の解体を伴う。クレタの牛、ユダヤの羊、アイヌの熊は解体される事で生命力を解き放つのである。
生贄はシャーマンが捧げる動物である場合もあるが、シャーマン自身が犠牲となる場合もある。その極端な例が原始キリスト教だろう。イエスが殺された事は「贖罪」と呼ばれる。ギリシアのプロメテウスにもその要素が見られる。
超越神への帰依よりも自力の修行を重視するインド的風土では苦行が重要な意味を持つ。インドにおける苦行は中東やメソアメリカにおける供儀と等価である。自分が苦しむ事はその対価として超常的な力を得るためだ。
この世と異界の通路は血や苦痛で充満しているのだ。異界へ去った者を取り戻そうとする試みが多くの神話で失敗に終わるのもそのためだ。イザナギとイザナミ、デメテルとペルセフォネー、オルペウスとエウリュディケー、全て同質の原理が貫いている。浦島太郎の玉手箱も現世と異界の隔離の原則を象徴している。
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ナウシカの物語は現世と異界のグノーシスの劇的な開示になっている。火と水のイデア的対立、毒と生命力の反転という錬金術、その錬金術は生物の中に既に存在する事、大地そのものが一つの生命体である事、弱肉強食の冷酷なルールもまた生命のホメオスタシス(恒常性)の一部である事、現世と異界(腐海)の隔離の原則、etc.
シャーマン・ナウシカは生贄となって死なねばならない。映画版でも暴走する王蟲の大群に跳ね飛ばされ死の直前まで行くが、アニメージュ版ではさらに冷酷な死の運命を宣告される。
それに較べると「天気の子」は異界の神秘が全く開示される事無く終わる。龍神もその正体を明かさず遥か遠くに朧げに姿を現すに留まっている。
陽奈が晴天を実現させるたびに少しずつ存在が透明になっていく事は一応シャーマン自身の供儀とも受け取れる。しかし異界へ連れ去られた陽菜は帆高の愛によって取り戻される。イザナミやペルセフォネーやエウリュディケーの古代的ルールは彼の愛に簡単に打ち負かされる。
異界の古代的ルールに対して「個の主体性」「愛が何よりも大事」といった現代の欧米的価値観が対置され、後者が前者と闘い勝利するという構図になっているからだ。
それは僕から見ると「邪馬台国なんてあんな基本的人権の尊重されない社会には興味ない」「卑弥呼なんてただの独裁者に過ぎない」という姿勢に見える。
或いは昔のテレビドラマ「タイムトンネル」でダグとトニーがインディアンの酋長やビリー・ザ・キッドに基本的人権を説く構図にも似ている。(もちろんタイムトンネルはアメリカ中産階級の価値観を日本に定着させるために放映されたものだ)
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それでは僕はこの「天気の子」を全くつまらない作品と見なしているかと言えばそうでもない。ピリアさんの絶賛も理解はできる。
それはこの作品が「現代日本の若者が抱える精神的病への処方箋」を指し示しているからだ。その病は僕の見立てによればかなりの重症だ。
日本の若者は暗記するばかりの教育によって健全な自我の発達をスポイルされ、自己のアイデンティティーを確立できない内に社会に放り出される。社会で待っているのはアングロ・サクソン型の資本主義だ。しかも英米ではその資本主義に対抗する横のボランティア的受け皿があり、それがキリスト教の強力な伝統によって裏打ちされているが、日本にはそれも無い。敗戦以後の日本は宗教的伝統をほとんど放棄し世界で最も唯物論的な国民性となっている。
そんな資本主義社会へ放り出された若者は企業で資本の原理を叩き込まれそれが人格の全てになる。「エコノミックアニマル」の誕生だ。システムに順応できない一部の若者は落伍者、引きこもりとなり「アスペ」「メンヘラ」などのレッテルを貼られ差別される。
知識の足りない中学生、高校生は自分の不満を論理的に表現できない。しかし何となく社会の偽善性は直感している。戦い方を知らない彼等にできる事は「理由なき反抗」しかない。怒りは親、教師、そこから突然飛躍し「全ての大人」に向けられる。
日本の、特に男の中学生・高校生にとって「親と先公」は意味の無い規則を振り回す形式主義者であり、世間体を気にする偽善者であり、受験勉強という「意味から疎外された労働」へと強制する独裁者だ。
日本の若者にとって「アイデンティティを回復する事」「主体性を確立し、その確立された主体を愛する事」が何よりも求められているのだと思う。
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