僕が大きく依拠している思想家の中でヴェーバーとユングにはかなりの批判も持っているという弁明を書いておきたい。
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ヴェーバーに対しては多くの批判がある事はもちろん承知している。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 はヴェーバーの思い込みを書いたもので歴史的事実と合っていないという批判はヴェーバーの研究者ならみな知っているし、山之内靖氏の「マックス・ヴェーバー入門」でも「ゾンバルトの理念型の方が史実に近い」と認めている。
ゾンバルトの理念型とは、資本主義の精神には冒険的・海賊的な精神と実務的・官僚的な精神という相反する2側面が初めから並存しているというものだ。(言い方はかなり違うかもしれないが)
資本主義論争を繰り広げたヴェーバーとゾンバルト
僕も恐らくゾンバルトは当たっていると思うが、しかしヴェーバーの理念型が的外れだとも思わない。何度も書いてきたように、理念型の妥当性とはどういうイデアをどういう切り口で取り出す時に現象を深く分析できるかであり該当者が何%あるかではない。
初期カルヴァン派が持っていた、音楽を否定しパイプオルガンをぶち壊すような過激な側面と、利益を全て投資に回す厳しさの間に内的連関を考える事は今でも正当だと思っている。もちろんこれが別の見方をすれば貨幣資本の要請に合わせたものに過ぎないというボルケナウの指摘も当たっている。
次にヴェーバーの「理解社会学」がディルタイ的な「了解」を用いる限り恣意性は免れないという批判もある。これもそういう言い方をすればその通りだ。物は言いようである。(笑)
それは逆に言えばヴェーバーの理念型にはヴェーバー自身の感動や苦悩が込められているという事でもある。
例えば「心情倫理と責任倫理」という概念である。責任倫理のモデルはカルヴァン派にあり、心情倫理のモデルは「古代ユダヤ教」を読めばエレミヤとイエスにある事が分かる。
「カルヴァンの革命は市民革命と資本主義に繋がり社会を全面的にひっくり返した。それに対しエレミヤやイエスの革命は何故失敗に終わったのか?」
「心情倫理と責任倫理」という二項対立にはこの様なヴェーバー自身の「痛苦の感覚」が込められているのだ。
それ以外にも例を挙げればヴェーバーの「戦士階級の精神」はヤスパース、ハイデッガーなどに共通する「限界状況と直面する事によって実存の中に死が取り込まれる」事を対象化したものである事は「ヒンドゥー教と仏教」の中のバガヴァッド・ギーターの分析を読めば分かる。
また「苦難の神義論」は何度も書いた様にニーチェのルサンチマン、それ故のキリスト教倫理の否定に対するヴェーバーの回答である。
「了解」が不正確な分析しか生まないという誤解は特に行動科学や分析哲学を信奉する英米系の学者に多いようだ。僕はそれに対してはディルタイやハイデッガーやガダマーの「前理解と追理解の循環」の信奉者である事を宣言しよう。 https
しかしヴェーバーのユダヤ教とカルヴァン派に対する思い込みが激し過ぎる故に重要な物を見落としている点がかなり見られるのも事実である。仏教における「自力本願と他力本願」はキリスト教における「自由意志と神の恩寵」という神学的テーマとかなり重なってくるのだが、ヴェーバーはこんな重要な事に気づいていない。
儒教に関しても、これは資料が少なくて分からなかった事もあるだろうが、朱子学における自然性と規範性の結合がトマス・アクィナスに似ている事は丸山真男は気づいているがヴェーバーは気づいていない。陽明学が様々な面でプロテスタンティズムに似ている事も余英時は気づいているがヴェーバーは気づいていない。ヴェーバーの限界は寧ろこういう所にあると思われる。
ヴェーバーをつまらない近代主義者と見る人は結構多い。それはヴェーバーの結論としてのヨーロッパ偏重から考えるに無理も無い批判なのだが、それはヴェーバーの隠された深みを無視し結論、表面だけを見た結果である。彼の最も深い地点を掘り起こす作業がもっと必要だ。
そう言えば日本のヴェーバー研究者には自身もカルヴァン派のクリスチャンが多い。まあそれは良いとして、彼等の多くが日本社会の前近代性を問題にし、英米的な思考を身につける事が解決法であるかの様な主張をしているのは残念だ。ヴェーバーを深く読めば「日本には英米型民主主義、英米型資本主義は永久に定着しない」「それはカルヴァン派の拡がった社会でしか上手く機能しない様にできている」という結論しか出て来ないはずだと思うが如何であろうか? 「ヴェーバー読みのヴェーバー知らず」にはなりたくないものである。
次回はユングの限界について書こうと思う。

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