ユングの元型論に影響を与えた錬金術の図像
ユングに対する批判は多くの立場からなされているが、僕が最も豊かな潜在的拡がりを持つと直感したW.ベンヤミンの批判を取り上げる。しかしその前にレヴィ=ストロースとM.ブーバーのユング批判も一瞥しておきたい。
これは僕の直感的アイデアを書くだけなので学問的な反論を期待する諸兄はガッカリするかもしれないが僕のブログはもともとこんなものである。(笑) これまでの学説との対決より新しい神秘学的パラダイムを開く事を優先している。もちろん今後次第に論理的に精緻化できる部分もあるかもしれないが。
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レヴィ=ストロースの神話学の方法は「神話論理」4部作を読まなければ分からないそうだ。だから僕はレヴィ=ストロースのユング批判に関する第三者の解説だけを読んで勘違いをしているのかもしれない。
僕の考えるレヴィ=ストロースのユング批判とは、
① 集合無意識を実体的に捉える事への批判
② それが遺伝するものと考えられ生物学と結びつけられる事への批判
③ 個々の神話モチーフが全体の構造と切り離されて何かの象徴と見做される事への批判
の3点に集約されると考えていた。
この内③には同意するが、①②に関しては僕はユング派である。そもそも神話学と生物学を結びつける相似象が僕のブログの最も大きな柱の一つだ。僕が何故レヴィ=ストロースに違和感を感じるか分かってもらえるだろう。
この①②③を総合すると結局レヴィ=ストロースの主張は「集合無意識は社会システムとしてのみ存在する」という事にならざるを得ない。これは唯物論者には支持されやすいが神秘主義者にはほとんど受け入れられない主張だ。
これに対する神秘主義者の対案は「社会システムは集合無意識の現れであり、政治経済的構造は生物の身体的構造と密接に関係し、個体発生が系統発生を繰り返す」というものである。
社会的分業と胚細胞の分化が同じ現象である事は誰も否定できないだろう。
しかし上に書いた様に僕のレヴィ=ストロース解釈が間違っていたのかもしれない。中沢新一氏はレヴィ=ストロースの構造概念にはゲーテやドゥルーズの生物的構造概念と結びつく視点があると言う。http
ただ僕の構造主義への違和感はそもそもソシュールの言語学の骨子である「シニフィアンとシニフィエの結合の恣意性」「それ故に通時的構造より共時的構造が論理的に優先する」という主張への疑問もある。
これがそのまま当てはまるのは記号論理学で言う記号のみだと僕は考えている。言語はそうじゃない。吉本隆明氏の言葉を借りて言えば「指示表出」は差異の体系だが「自己表出」はそうじゃない。
さらにプラハ言語学の方法を比較神話学や親族構造論に拡張する事の妥当性を哲学的に検証した論文は未だに無いと思う。(間違っていたら指摘してもらいたい)
つまり構造主義は新カント派や分析哲学の様な基礎から緻密に積み上げられた体系ではなくまだアイデアの段階だと思っている。それならば「共時的構造と意味の通時的変遷は相互に影響を与え合う」とルーズに考えておいた方が無難だし、その共時的構造はヴェーバーの理念型と似たものと考えても差し支えないはずだ。
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レヴィ=ストロース的構造主義がアルチュセール、ゴドリエ、クロード・メイヤスーなどのマルクス主義者に高く評価される一方でユングは主に神秘主義者に影響を与えたが、ユングを批判する神秘主義者もいる。その代表がマルティン・ブーバーだ。http
そもそもユダヤ神秘主義の立場に立つブーバーが意図せずしてナチスの思想に接近したユングを快く思うはずがなく、しかもユングの元型論がヤーウェを悪魔と考えるグノーシス主義に影響を受けているとなればなおさらだ。しかしブーバーのユング批判の核心はユングが心理学者の一線を踏み越えて宗教の領域に心理学の方法を持ち込み自分がグノーシスの予言者気取りになっているという点にあるようだ。
この点に関しては僕もその通りだと考えている。先ず第一に心理学と哲学・思想の間には部分的に関連付ける事はできるが哲学・思想の問題を心理学に「還元する」事はできない、という意味での断絶がある。神話となれば尚の事だ。
この点はむしろフロイトの方が良く分かっていたように思う。彼は思想的平面、心理的平面、生理学的平面の間に有る断絶を意識しながら、医者という職業がら「敢えて」生理学的概念で全てを押し通そうとしたのであり、それ故にそこには激しい緊張感が生まれるのである。
フロイトの「トーテムとタブー」「快感原則の彼岸」などに後期ドストエフスキーのような強烈な迫力があるのはそのためである。この迫力、緊張感がユングやエーリッヒ・フロムには欠けており、彼等は哲学、神学を心理学的命題に還元して何か解ったような気になっている、少なくともそう批判されても仕方のない面がある。
僕が高く評価するユングは元型論のみであり、しかもゲーテやヘッケル的に解釈された元型論である。それは「個体発生が系統発生を繰り返す」という特殊な時空の構造を共有している。これはデカルトの解析幾何学と同じくらいの新しい学のパラダイムを切り開く恐ろしい領域だと僕は確信しているのだ。
しかし実はユング自身がこの元型論の思想史的意義を台無しにしてしまう主張もしている。それは無意識を個人無意識と集合無意識に領域分割し、生まれてからの経験に由来するものが個人無意識、遺伝され生来続いているものが集合無意識と考えている事である。僕はこれはユングの弟子の主張だと思っていたのだが、ユング自身がそういう発言をしている事を最近知った。これはかなりガッカリである。(笑)
「無意識の形成においても個体発生は系統発生を繰り返す」と考えてこそユングはゲーテ、ヘッケルの延長上に位置付けられる事になる。エーリッヒ・ノイマンはその立場に立っている事を「意識の起源史」の序章で語っているので抜き出しておこう。(下動画の2:43から)
個人の自我意識は個体として発達していく中で人類の歴史を通して意識の発達を決定してきたのと同様の元型的な諸段階を通過しなければならない。個人の人生は彼以前の人類が歩んだ軌跡を辿らねばならない。
今村一成氏の論考(https)でベンヤミンが危険なものと見做した下の思考の中にこそユングのラディカリズムがあると僕は考える。
ユングの提唱する集合的無意識は,過去の幾重にもわたる世代の心的生活が無意識下に蓄積されたものとされ,比較的新しい世代の経験がより浅い層に蓄積されるような地質図のモデルで彼はこれを説明している. この観点からすると個人的な無意識と純粋に集合的な無意識のあいだに,当時のドイツの政策を連想させる「民族的」な層を想定せざるをえない.
デカルトは解析幾何学のアイデアを考案した時、自分の知はもはや人間の領域を超え「天使の領域に到達した」と確信した。神話と生物の相似象を考える事は人間の領域と天使の領域の境界に接近する事なのだという「怖れ」の感覚を忘れない様にしたい。
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マルキストであったベンヤミンのユング批判もまたユングとナチスの思想的親近性だけではない。今村一成氏はそれをこうまとめている。
過去や現在のいずれかが優先権を持つのではなく「夢の意識というテーゼと意識というアンチテーゼの総合としてのジンテーゼ」つまり「この今における認識可能性」としてその覚醒はある https
難しい文章だが、要するにベンヤミンはユングの中に「現在の中に過去の美しい元型の痕跡を見る」ドイツロマン派の精神構造を認めそれを嫌悪しているのだ。そうだとすればこれはユングとドイツロマン派に対する見方が僕とまるで違っている。
過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象の中でこそ、かつて有ったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出あい、ひとつの状況を作り上げるのである。
ベンヤミンのこの言葉は僕がヘルダーやランケの歴史主義とブルトマン神学について表現した内容とほぼ同じである。http ドイツロマン派と歴史主義者の一部には過去の栄光に価値の源泉を見出し過去の光で現在を照らそうとする者もいる。しかしドイツロマン派の主流は神と現在の交錯の中に永遠を見ているというのが僕のドイツロマン派とユングの元型論に対する解釈だ。
しかしベンヤミンの指摘した問題を突っ込んで考えると難しい問題にぶつかる事になる。
進化論を知らないゲーテの原型は鉱物、植物、動物の共通する、超時間的な形態形成的なアイデアであり「岩石の原型は花崗岩である」と言う時、その原型とは「石英と長石と雲母が程良いバランスを保っている理想型」というニュアンスを帯びている。http それは形態形成の力、ドゥルーズの微分的な構造、ベクトル場とも近いものだ。原型と理想型は一致している。
しかしヘッケルになると話が別になってくる。ヘッケルはダーウィンの進化論の熱心な擁護者であり、「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説をゲーテ的な「原型とメタモルフォーゼ」と重ねれば当然「原型」は発生の出発点である受精卵、進化の出発点である単細胞生物という事になる。しかし進化論における価値の源泉は未来にあり、「原型」は遠い過去に「理想型」は遠い未来にと分裂するのである。
かえって僕が無脊椎動物について「回想的反復」と名付けた「時々思い出した様に現れる原型的パターン」の方が原型が時間を超越しているだけに矛盾が生じない。
この分裂を回避する一つの方法は「遠い過去に理想型が存在し、その失われた理想型を取り戻す」事に価値を見出そうとする思考である。プロティノスから始まりマルクスやシュタイナーまで継承されたその「V字回復」の思考回路は、前に書いた「世界の成り行き」と「霊性進化」が並行するのか逆行するのか?という難問と重なってくるのである。http
ベンヤミンも僕の見立てではドイツロマン派の過去への拘り方と教条的マルクス主義の進歩史観の両方を否定し「遠い過去の原始共産制を未来の目標ともするV字回復的思考」と、それを現在の実存との交錯に見るブルトマン的神学によってマルクスを深め「黙示録的マルクス主義」を作ろうとしたのだと思われる。
ユングはどうか? 唯物論者のフロイトと違ってユングはヘッケルの反復説を取り込む際に「元型は時間を超えたものだ」と考えた。神話的形象は元型そのものではなく元型の「現れ」だ。しかしこれではまだスッキリしないものがある。「ユングの元型を超時間的なベクトル場と見る事」と「元型の系統樹をヘッケル的反復と見る事」、この二つをどう両立させるかを哲学的に詰めて考えていない事、この辺にユング派の限界があると僕はかんがえる。
そしてこの問題は「世界の成り行きと霊性進化が並行するか逆行するか」という神智学的テーマと裏表である。

コメント
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https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/01/13/170110
しかし元型論のラディカルな意義は僕は相変わらず確信している。
ミトラ
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ミトラ
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