バッハオーフェンでは父権制と太陽信仰、母権制と月信仰がほぼ重ねられている事はこれまでに繰り返し書いてきた。父権制はアポロン、母権制は基本的にはデメテルとアプロディテ、また歪んだ形でアマゾンとディオニュソスに現れている。

彼は父権制と母権制の闘いを「大地の支配権をめぐる太陽と月の闘い」と表現しており、これはヘルメス文書やグノーシス主義のモチーフである「宇宙の支配権をめぐる神とデミウルゴスの闘い」の変奏と見做される。
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これが正統派キリスト教の「神と悪魔の闘い」と本質的に違うのは太陽と月、父権と母権、アポロンとデメテルのどちらにも合理性があるという事だ。

そして母権制=月はユングやノイマンの言い方を借りれば「肯定的マザーと否定的マザー」の両義性を持つのと同様にバッハオーフェンにおける大地母神も「女神であると同時に娼婦でもある」という両義性を持っている。
このグレートマザー、大地母神の両義性もまた遡ればグノーシス主義の「ソフィアが神性と欲望の両義性を持つ事」の変形だ。

このグノーシス〜ヘルメス〜バッハオーフェン〜ユング〜ノイマンのモチーフの一貫性はしかし、人類学的には検証できていない。父権制と太陽信仰、母権制と月信仰の繋がりは確認できなかった。ここまでは復習である。


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エスター・ハーディングがこの書で示そうとしているのは
月の女神の神話学、そのあらゆる様態と系譜、及びその元型としての象徴的意味である。
 

彼女は前回挙げたスーザン・ローランドによって「初期のユンギアンフェミニズム」と紹介される様に、ユングの(というより僕の印象ではほとんどバッハオーフェンの)図式、即ち父権制と母権制を太陽と月、ロゴスとエロスなどに重ねて見る図式を継承しており、従ってその後のラディカルなフェミニズムによる「女性性そのものが男性に都合良く作られた概念ではないか?」という批判はカッコに括られる。

「月信仰と母権制の内的連関を深めたい」という僕の今のテーマにとってはちょうど良い材料を選んだと思っているが、ただ
彼女はバーバラ・ウォーカーと同様のシャーマン的、予言者的な語り口であまり論理的に整序されていないため読解に時間がかかる。(苦笑)

新たな二項対立が加わる事で僕の「太陽と月と大地のメタファー」がどの様に敷衍、或いは修正されるか、またその内的連関を深める事ができるか、その点に注意してざっと要約してみよう。



エスター・ハーディングの言う「太陽と月」「男性性と女性性」は整理すると次の様なものである。

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バッハオーフェンと同様、彼女は父権制の確立と並行して「月の女神」の価値が貶められてきたと主張する。
多くの未開人には月光が植物を育て動物をも受精させるという観念があった。その理由は今のところ挙げられているのは以下の3点である。
① 特に酷暑の熱帯では太陽が生命の敵と見做されたのに対し月光は情深く豊饒なものと感じられる。
② 月の満ち欠けが女性の妊娠による腹の変化と相似と見られる。
③ さらにその周期まで女性の生理、海棲動物の産卵と一致する。

月光が女性、動物の雌を孕ませるという観念はエジプト神話で見てきたが、ハーディングはグリーンランドのエスキモー、ブラジルのボトキュドス(=ボトクード)族、ナイジェリアの先住民、西モンゴルのブリヤー族など世界の多くの未開社会で同様の観念が見られる事を指摘する。(バーバラ・ウォーカーはもっと多くの例を挙げている。https

月は女性を孕ませると同時に自分も孕むわけだ。この辺は未だにすっきりとしない所だがそれは今は棚に上げて、月の満ち欠けが女性の妊娠した腹と相似であれば、その位相に下の様な深い意味を認めるようになるのは自然な事である。

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この様な月齢に従って農作業などを行うのは現代人の想像以上に世界中に、また近世まで見られたようである。