僕が共鳴するのは「悲劇の誕生」 のニーチェである。「善悪の彼岸」「道徳の系譜」のニーチェには共感しない。僕は左右前後に揺れながら、最終的にはプラトン主義者であり自然法論者である。神秘主義と後期ニーチェは両立しない。またプラトン主義は恐らく原始仏教とも両立しないだろう。「諸法無我」は間違いと考える。
ライプニッツのモナドが「微分化された神」であるなら僕の想定するモナドは「微分化された神と悪魔」であり同時にカルマが蓄積するアーラヤ識でもある。
しかしだからと言って唯識論のみに依拠する訳でもない。サーンキャとジャイナ教のカルマ論は今後追求するテーマだ。
バシャールやセス、メルキゼデクなどの現代チャネリング系スピリチュアリズムには基本的に共鳴するが、それが現実の社会問題において「怒り」の意義を全否定し「無限抱擁」の道徳のみを説くようならば、僕はそれを米軍産複合体の立場に立つ者であると見做す。アメリカ民主党寄りのチャネラー、最終的にカーネギーなどアメリカの富豪を称賛するようなチャネラーは要注意だ。
老子やラジニーシも同様だ。「無為自然」と「社会に抗議の声を上げる事」は矛盾しないし二つに区別されるものでもないと思う。
僕は右翼でも左翼でもない。仏教的中道である。仏教的中道とは右と左の中間を採るという事ではない。左右に全く拘らないという事だ。
全共闘のラディカリズムに惹かれると同時に玄洋社の大アジア主義にも惹かれる。
いいだももに惹かれると同時に一水会にも惹かれる。
毛沢東の根拠地論と同時に権藤成卿の「社稷」の思想にも惹かれる。
ロシア・ナロードニキと日本の農本主義は同一の根を持ちながら何故一方は共産革命に、他方はファシズムに繋がって行ったのか、それを考え続けたい。
愛国心教育は大賛成だ。しかしそれには日本を「愛するに足る」国にしなければならない。
アジア侵略戦争を心底から謝罪し、罪を償い、その原因を究明する事ができないなら、そのような日本を愛する事は不可能だ。日本はドイツに学ぶべきである。
侵略戦争の原因を帝国主義に還元するマルクス主義的還元論には同調しない。また逆に「日本人には遺伝子的に罪の意識が希薄である」といった生物学的還元論も支持しない。
日本の侵略戦争の原因は「近代日本のナショナリズムの特殊性」という問題として分析する事が必要だ。そのテーマを正面から取り上げている丸山真男学派に共鳴する。と同時にその丸山学派を疑い、構築し直す事が重要だと考える。
儒教そのものが反動的とは思わないし儒教道徳の復権には好感を持っているが、それが北村透谷の言う「内部生命」を失うならただの「虚栄心の体系」に堕するだろう。
「思想的営為への誠実さ」と同時に「力による均衡」も必要だ。この二つは平面を異にするゆえに「倫理と力のバランス」というバランス感覚によってしか調停され得ない。丸山真男の「私は洗練されたマキャベリストでありたい」という言葉を僕はそのように解釈する。弱肉強食の原理を「倫理」と見てしまうと帝国主義時代と同じ過ちを繰り返すだろう。
この記事を「思想的現住所」としたのは今後も多少変化する事を視野に入れてである。その度にこの記事を加筆、修正しようと思う。

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