「最終電車に乗る人は急ぎなさい」という駅長の優しい言葉に彼女は走り出す。しかし目の前でドアが閉まってしまう。最終電車という事は深夜だ。自宅へ引き返すのもタクシーしかないか。彼女はガッカリして電車の中を見る。彼女と同じく帰郷する人が多いのだろうか?

灯りともる窓の中では帰りびとが笑う

この言葉はもう一度繰り返される。ガッカリしている自分と電車の中の家族の明るい笑い、わざと対比されたこの言葉は何か隠れた意図が感じられる。そして驚くのはこの後だ。

ふるさとは走り続けたホームの果て 
叩き続けた窓ガラスの果て


彼女はドアが閉まった後も窓ガラスを叩き、無情に走り出した電車を追ってホームの端まで走ったのだ。最終電車に乗り遅れただけにしてはずいぶん大袈裟ではないだろうか? また明日早めに出直して来れば良いだけの話ではないか?

この狂乱とも言える行動のわけは歌の最後になって初めて解る。

ネオンライトでは燃やせない ふるさと行きの乗車券

彼女は都会のネオン街で働く「夜の女」なのだ。その夜の女の悲しみをもっと露骨に歌った曲がこれだ。



ここではこれでもかこれでもかというくらいに赤裸々に失恋した女の心が歌われている。

何人もの男が彼女の心の中を通り過ぎて行った。男に捨てられ、騙され、ボロボロに傷ついた彼女は傷を癒すためというより隠すため「作り笑い」の仮面をかぶり、どうでもいい男と付き合い始める。


さて、「ホームにて」に戻ろう。彼女にとって故郷は単なる故郷ではない。まだ心に傷を負わない、純朴で天真爛漫だった頃の思い出の地なのだ。


ここでようやく「灯りともる窓の中では帰りびとが笑う」という言葉の真意が分かってくる。屈託の無い笑い、その何の罪も無い優しい家族の団らんの姿が、今の彼女には残酷な笑いに感じられる。「やさしいやさしい声の駅長」というのも同じだ。

あちら側には屈託の無い笑いの世界、こちらにはボロボロに傷ついた自分、その二つの世界は窓ガラスで仕切られている。だからこそ彼女は「開けてー! 開けてー!」と叫び、窓ガラスを叩き続ける。


「ホームにて」は「かなしみ笑い」と違って曲自体はのんびりとした牧歌的な雰囲気の歌だ。しかし牧歌的な雰囲気の中に一瞬ギラリとした情念を垣間見せるのもまた中島みゆきのテクニックの一つである。