神話的直感が衰えているので、今回はウォーミングアップである。

「タントラと禅」の二項対立は以前書いた「ディオニュソスとアポロ」の拡大解釈と捉えたものである。つまりこの(
https)記事の部分的展開と考えてもらって結構である。

もちろんこれは最も広い枠組みとしての「太陽と月と大地のメタファー」には「顕教の禅と密教のタントラ」という形で ⑰ にスッポリ収まる。
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それは「父性的な禅宗と母性的なタントラ」という点で ⑱ にも、また密教の無限抱擁的性格など他の項目にも符合するのは少し考えてもらえば分かるだろう。その場の思いつき、偶然の一致ではないという事だ。



タントラの心象風景は曼荼羅に、禅宗のそれは山水画、特に馬遠の山水画に典型的に現れている。

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曼荼羅は上下左右等方的で円の形を極致とするのに対し馬遠の画は「辺角の景」と言ってワザと左右不対称に描く。https
曼荼羅は密集し、馬遠はポッカリと開いた空間を作る。曼荼羅は暑苦しく馬遠は寒々としている。




タントラと禅宗の対極性は建築様式にも現れている。左はインドのカジュラーホ寺院群の一つ、右は禅宗の書院造りの影響を受けた和室である。

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密集しグニャグニャと変形したタントラに対し和室は部屋の中に何も無いのを理想的な美と感じ、直線的である。和室のポッカリ空いた空間は馬遠の描く空間に似ている。





この差は文章表現にも現れる。お経の中でタントラ的な性格を持つ華厳経の世間浄眼品の一節を紹介する。

不思議な獅子座は大海のようであり、諸々の宝の花によって飾られ、光が流れる雲のように広がって、全ての限りない菩薩たちの集まりを照らしだし、大音が遠く響き渡り、不思議な宝珠の光がその上を覆って、様々に変化して仏事をなし、一切にことごとく障げがなく、一念に一切が現れて、法界に充満し、如来の相はそのいかなるところにも現れ、無数の宝がその台を荘厳していた。

一文が長く、修飾語が多く使われて密集した曼荼羅、或いは熟した果実を思わせる。これは法華経にも共通する特徴だ。

これに対し禅宗の「六祖壇経」は文章が短く切られ、修飾語ができるだけ省かれて引き締まった文体になっている。

そもそも真如仏性はもと人心に在り。
心正しければ即ち諸境侵し難く、
心邪なれば即ち衆塵汚し易し。
よく心念を止むれば、衆悪自ら亡ぶ。
衆悪既に亡ぶれば、諸善皆備わる。


この二つの理念型は東洋に限らないのであって、例えばパレストリーナの音楽はタントラ的であり、ルター派コラールは禅宗的である。
フローベールの文章はタントラ的でヘミングウェイは禅宗的だ。
ゴシック建築はタントラ的、ドーリア様式は禅宗的だ。

この様に他文化へも拡張できるのはこの二つが「元型」的性格を持っているからだろう。