具体的な詩の内容に入る前にその重要な背景に言及しておかねばならない。
「風景とオルゴール」が作られたのは1923年 9月16日とされている。これは妹のとし子(本名トシ)の死(1922年 11月27日)から一年も経っていない。

彼女の死から賢治がどれほど大きな衝撃を受けたかは賢治の愛好者でなくとも多くの人の知るところだ。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」などの詩に賢治の叫びが赤裸々に描かれている。その死から一年未満の時期、これだけで賢治の心の状態は想像できる。まだズタズタに引き裂かれたままなのだ。
しかし彼は「そろそろ立ち直らねば」とも考えている。
「風景とオルゴール」の一つ前の詩「宗教風の恋」ではこう語る。
どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを
わざとあかるいそらからとるか
いまはもうさうしてゐるときでない
・・・・中略・・・・
さあなみだをふいてきちんとたて
もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
また原稿だけが残された詩断片「堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます」では「とし子の死」という具体的な悲しみを昇華し「形而上学的な悲しみ」へと転化しようとする。
まことにこれらの天人たちの
水素よりもっと透明な
悲しみの叫びをいつかどこかで
あなたは聞きはしませんでしたか。
まっすぐに天を刺す氷の鎗の
その叫びをあなたはきっときいたでせう。
賢治ととし子の関係はこれだけを読むと宗教的な恋だったかとも思われるが、賢治の詩にはもっと暗い謎が秘められている。彼は「青森挽歌」で自分ととし子が地獄へ堕ちる幻想に悩まされている。https
それともおれたちの声を聴かないのち
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気(せうき)のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いつたいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いつたいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と
斯ういつてひとりなげくかもしれない……
「宗谷挽歌」ではとし子が地獄から呼んだら自分も一緒に堕ちると宣言する。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
紫いろのうすものを着て
まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸に行ってやらないだらう。
賢治は一方でとし子との関係を「宗教風の恋」と呼びながら、他方では二人が地獄に彷徨う不安を抱いている。これはどういう事なのだろう? 二人の間に何があったのだろうか?
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青江舜二郎氏は賢治ととし子が近親相姦だったと推測している。(講談社現代新書 「宮沢賢治 修羅に生きる」)彼によれば当時の東北地方ではハンセン氏病(いわゆるライ病)は遺伝すると考えれらており、宮沢家は「ドシのマキ」(ライ病の家系)と言われていたらしいのだ。宮沢家が「ドシのマキ」と言われていた事は実際に賢治の故郷である花巻出身者の複数の証言によって裏づけられている。
もし宮沢家が「ドシのマキ」と言われていたならば、賢治もとし子も一生結婚できないと思っていたに違いない。そのような兄妹が近親相姦になっていくのはむしろ自然の流れである。
僕は彼の推理は説得力があると思った。そして賢治の「私は修羅なのだ」という言葉はそう考えて初めてその重みが理解できるし、「永訣の朝」や「無声慟哭」もその前提で読むと迫真力が全く違ってくるのである。
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