宮沢賢治の詩や小説が法華経の解釈、表現になっている事は全ての研究者が指摘するところだ。これを機に以前法華経について書いた二つの記事をまとめて再掲する。
僕が法華経を何度も読み返し、他の神秘主義の知識と照らし合わせてみた結果、法華経の核心は次の二項に還元されると確信した。
(1)あらゆる活動が(営利活動でさえも)それをとことん突き詰める事で仏道の修行になる。何故ならあらゆる諸法は一つに帰一するからである。 (法華一乗)
(2)あらゆる衆生が悉く成仏できる。何故ならあらゆる衆生が本来一つの仏陀だからである。(久遠実成の仏陀)
これは神秘主義における倫理学の典型的なパターンの一つを示している。
もう一つのパターンは「バガヴァッド・ギーター」に示された「あらゆる目的合理性を拒否する」というパターンである。
神秘主義の観点から見ると法華経は、典型的な「大宇宙と小宇宙の一致」を説いているものである。同じ大宇宙と小宇宙の一致を、華厳経は存在論の観点から、法華経は倫理学の観点から説いているのである。
宮沢賢治は法華経の如来寿量品に感動したという。これは現世のゴータマは入滅したが、本来の如来は入滅せず久遠の過去から法を説き続けていると述べるくだりである。これは単に応身のゴータマに対し法身仏の存在を示したのではなく、大宇宙(如来)と小宇宙(現世の個人)の一致を示していると僕は解釈する。
それならば凡夫も本来は如来のはずだ。修行によって果が出るまでの時間の差はあってもいずれは全ての衆生が成仏できるはずだ。提婆達多でさえも成仏を約束されていたではないか。
衆生に聖人と凡夫の差別が無いならば声聞、独覚、菩薩の差別も不要である。三乗の差別は人に応じて最も合ったやり方を示した「方便」であり、本来は全て一乗である。こう考えると一見バラバラに見える法華経の内容が全て繋がってくる。
この「大宇宙と小宇宙の一致」という神秘主義的な解釈は法華経に明言されてはいないが、至る所に文章から滲み出してくるように示唆されている。序品第一には「総ての法は、生ずとも二つなきこと例えば大空に似たり」とか「このごとく二万の仏、総て同じ名にして、日月灯明と言えり」などもそうだ。多少の神秘的直感を持つ者ならば誰でも気づくように示唆されている。
逆に言えば、このような深層に隠されたメッセージを読み取らない限り法華経は比較的つまらない比喩と、あとは江戸時代の富永仲基がこき下ろしたように「法華経の内容のほとんどが『法華経は素晴らしい、法華経は素晴らしい』と言ってるだけだ」という事になってしまう。
宮沢賢治も恐らく僕と同じ「大宇宙と小宇宙の一致」を法華経に読み取っていたと僕は確信する。それは彼の詩や小説を読む内に分かってくるだろう。
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「十界互具」は「摩訶止観」で説かれる天台哲学の核心中の核心である。
衆生の生命の境涯として仏、菩薩 、縁覚、声聞、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の十界が有る 。もともとバラモン教で「天、人間 、畜生、餓鬼、地獄」間の五道輪廻論であったものを生命の境涯と読み直したものだ。
この十界のそれぞれが他の九界を内に含んでいる、と主張するのが十界互具である。
十界がそれぞれ十界を含むのだから百界となる。これにさらに十如是、三世間が掛け合わされ三千世間となる。
ほんの少し心の一念を動かしただけで三千世間、即ち宇宙全体に響き渡り、逆に広大な宇宙の森羅万象は凡夫の一念の中に尽くされている、という「一念三千」 という遠大な理論となる。この一念三千の法門の核心が十界互具なのである。
どんなに菩薩の様に善人に見える人でもその内には修羅や地獄を抱えている。
自分の内に修羅や地獄を抱えているからこそ、修羅や地獄にいる他の衆生を思いやり救う事ができるのだという。
また悪魔のように見える人でも例えば自分の子供に対する時には菩薩の心になったりもするし、菩薩や仏を内に蔵するからこそ救われる機縁も生まれて来るのである。
この「十界互具」は善人と悪人を差別的に分断し、固定的に理解する素朴な勧善懲悪的人間観を根本からひっくり返すラディカリズムである。
彫刻家で太陽の塔の作者として有名な岡本太郎の母、岡本かのこは作家にして仏教研究者でもあったが、彼女はドストエフスキーの小説の目標が「十界互具」にあると主張する。
十界がそれぞれ十界を含むのだから百界となる。これにさらに十如是、三世間が掛け合わされ三千世間となる。
ほんの少し心の一念を動かしただけで三千世間、即ち宇宙全体に響き渡り、逆に広大な宇宙の森羅万象は凡夫の一念の中に尽くされている、という「一念三千」 という遠大な理論となる。この一念三千の法門の核心が十界互具なのである。
どんなに菩薩の様に善人に見える人でもその内には修羅や地獄を抱えている。
自分の内に修羅や地獄を抱えているからこそ、修羅や地獄にいる他の衆生を思いやり救う事ができるのだという。
また悪魔のように見える人でも例えば自分の子供に対する時には菩薩の心になったりもするし、菩薩や仏を内に蔵するからこそ救われる機縁も生まれて来るのである。
この「十界互具」は善人と悪人を差別的に分断し、固定的に理解する素朴な勧善懲悪的人間観を根本からひっくり返すラディカリズムである。
彫刻家で太陽の塔の作者として有名な岡本太郎の母、岡本かのこは作家にして仏教研究者でもあったが、彼女はドストエフスキーの小説の目標が「十界互具」にあると主張する。
「19世紀に始まった文芸の自然主義は人間性質の中から動物的本能を容赦なく抉出して人間の虚飾な理想を打ち破るべく起こった文学であります。
前に述べました天台学の分類に従えば、人間心の中で特に修羅、畜生、餓鬼、地獄の心に科学的のメスを突き入れた文芸であります。」
「自然主義の作家達の中には、人間の心に科学的のメスを突き入れて人間の心を病原の標本の様にアルコール漬けにしてしまうのもあり、冷たい死屍のままで木乃伊( ミイラ)にしてしまうのも有りました。
然し中にはその醜さの中から高貴な光が放たれて来るのに気付いた作家もありました。」
「醜陋の臓腑と高貴な心臓とは生命的に脈絡あることを発見しかかったのでありました。
すなわち天台学でいう十界互具に該当しかけたのであります。」
「露の文豪ドストエフスキーのカラマゾフ兄弟などを見ると、作の動機が前述の十界互具に置かれてあることが明白であります。」
全く同感だ!!
「カラマーゾフの兄弟」の発表された部分は第1部であり、第2部では熱心なクリスチャンのアリョーシャと無神論者のイヴァンの人格が入れ替わり、アリョーシャが罪を重ね、絶望の果てに最後に再び信仰に戻っていく物語になる予定だった事が未発表の原稿から分かっている。
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天台哲学のラディカルな性格を否定的に見る批判があるのも承知している。例えば渡辺照宏の「お経の話」(岩波新書)がそうだ。彼はサンスクリット語の法華経と漢訳法華経を詳細に比較し、「空、仮、中の三諦円融」など天台哲学の最も基本的な部分がサンスクリット語の誤訳によるものと断定した。
確かに誤訳は誤訳だ。しかし僕は天台哲学が誤訳の上に立脚した砂上の楼閣とは思わない。
その誤訳は神秘主義的直感でもあるからだ。
「三諦円融」「十界互具」「一念三千」は「大宇宙と小宇宙の一致」という発想で法華経を読めば比較的容易に辿り着く着想と言って良い。だからこそブラヴァツキー夫人も法華経の重要性を指摘しているのである。
宮沢賢治の詩、小説、手紙や手記には「十界互具」「一念三千」の言葉は残念ながら見当たらない。つまり彼は法華経は読んでも「摩訶止観」は読んでいなかったという事だ。しかし賢治の詩や小説を読んでいけば必ず「十界互具」と同等の発想に行き当たるだろう。これからが楽しみだ。
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