どうもコロナに感染してから頭が悪くなったような気がする。(笑)
まるでゲーテとシュタイナーの霊が逃げて行ったようで読書が一向に進まないし読んでもインスピレーションが降りて来ない。まあ、霊が逃げて行ったのならそれはそれで運命なのだが、もう少し努力してみようと思う。
資本論は「物象化論」の体系であると言われる。その「物象化論」と初期マルクスの「疎外論」を比較しどこが継承されどこが違っているのかを明らかにする事で物象化論の核心が明らかになると思う。
疎外論と物象化論のモチーフの連続性を強調しているのがK・レーヴィットの「ウェーバーとマルクス」だとすれば、疎外論から物象化論への認識論的地平の飛躍を詳しく検討したのが廣松渉の「資本論の哲学」だと思うのだが、廣松氏の書は今手元に無いし、レーヴィットの書も学生時代には楽に読めたのが、今は読解に時間がかかっている。
これは「long COVID」なのか、歳のせいなのか?(笑)
まあ仕方がないから簡単な図解でエッセンスを解説しようか。
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疎外論の経済的側面は「経済学哲学草稿」に現れている。労働によって人間の「本質」が生産物として人間の外へ「疎外される」。(図 ①)
労働者が汗水流した結果である生産物が「商品」となった途端に労働者によそよそしく対立するものとなる。
この捉え方は直感的であるが当時のイギリス労働者の実感だったのだろう。女性まで裸で働く炭鉱の劣悪な労働環境が大きな社会問題となった時代だ。
それに対し物象化論では人間と人間の「関係」が商品と商品の「関係」として共同体の外側へ物象化される。(図 ②)
資本主義社会では工場でのライン作業に極端に現れるように、分業化され孤立した労働によって共同体的人間関係が消滅し、人間の共同性は商品交換の中でのみ現れる。
さらにその商品交換を支配し、象徴するものとして貨幣が存在する。貨幣は物象化された共同性の象徴、権化である。価値形態論に続く「商品の物神的性格」で説かれる「人間と人間の関係が物と物との関係となり、さらに一つの物となる」という言葉は人間の共同性がAからBへ、BからCへと物象化される事を意味する。
レーヴィットの主張を誤解を恐れず端的に言えば「もともと使用価値である労働生産物が商品交換の中で交換価値として現れる事が疎外」なのだ。
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資本論を「経済学の書」として読むという出発点からして僕は疑問である。資本論は経済学「批判」つまり古典派経済学を批判した書である。
マルクスの立場をアダム・スミスと同列に並べて「労働価値説」と考えるのもおかしい。マルクスは「商品が労働時間によって測られ交換される世界」を「廃棄」「止揚」する事を目指している。ジョン・ロックからアダム・スミスに至る「自然法の延長としての労働価値」とはまるで逆だ。むしろ「労働価値が自然法の様に映ずる背景には物象化が存在する」というのがマルクスの立場である。


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