資本論における物象化論が経済学哲学草稿の疎外論の継承である事はレーヴィットの言う通りだと考える。マルクスの言う「商品の物神的性格」とは商品交換の背後に人間の社会的関係が隠されている事に由来する。それはどの様な社会的関係なのか? ここでマルクスの考察は商品交換の流通過程から剰余価値生産の生産過程へと移行する。

しかしこの「物象化と剰余価値説はどの様に関係しているのだろうか」という問題になるとかなり難しくなってくる。宇野弘蔵の講座派に対する批判の核心の一つが「剰余価値説と価値形態論を切り離している」点にある事から考えてもこれが日本資本主義論争と関わる膨大な問題である事が分かる。これを詳細に論ずるのはもちろん僕の手に負えるものではない。ここでは僕の印象をやはりアイデアとして図解するにとどめよう。


マルクスの剰余価値説は思弁的だ。
①工場や資本主義的農場など労働の現場において労働力が商品となっている事
②そして労働力はその「使用価値」が労働の投下でありそれが商品の価値を付加するのに対し
③支払われる賃金は労働力の価値(労働者が生活を再生産するのに必要な価値)の対価として支払われるので、その差が剰余価値となる。

マルクスはこれを不等価交換と考えないのである。労働力の価値に対しては等価交換が行われながら剰余価値を搾取できる秘密は「労働が付加する価値」と「労働力の価値」の差にある。


そもそも「経済が循環する中で価値が増大する」という「価値論」自体が形而上学的だ。(だからと言って形而上学だから無意味だという唯物論者の説に同意する訳では決してない)
労働価値説と効用価値説の両方が正しいし(こちらを参照 
https )重農学派の「商品の価値は自然(太陽)が付与する」という説も同じくらいに正しいというのが僕の見方である。

経済が回転する内に価値が増大する、その価値量を測るにはどこかで回転を切断して基準を決めなければならない。マルクスはそれを労働の現場においたという事だ。

ここで注目されるのは商品価値を付与する労働の投下が「労働の使用価値」であり、賃金は「労働力の価値」であるとマルクスが主張している事だ。少し無理がある様に思うが、とにかくマルクスは商品交換における「使用価値と交換価値」の二面性を下図の如く剰余価値説に繋げようとしたのである。

労働が投下する価値(商品価値)・・・労働の使用価値  

賃金=労働力の価値