🔵 ヤフーブログ時代に書いた日本社会に関する二つの記事をまとめて再掲する。





今の日本は長期的に見て文明全体が衰退へと向かっているのは明らかだ。日本の長期低迷化の原因には幾つもの要素が絡まり合っている。その凋落の構造について書こうと思う。思索の時間が足りなかったので、少し粗雑な記事になったかも知れない。この記事を書こうと思ったのは、日本の凋落の深層構造について気付いていない人が多い様に見受けられるからだ。景気さえ良くなれば、年金問題さえ解決すれば、中国や韓国との関係が改善すれば・・・・そんな簡単な問題ではないのだ。


(1)民主主義の定着度の問題

戦後の日本はアメリカに強制されて英米型の民主主義を導入した。
今でも自民党内リベラル派や中道派を中心に英米型民主主義を日本に定着させようとする考え方が根強く存在する。しかし、この考え方は英米と日本がいかに正反対の社会であるか分かっていないのではないか。

① イギリスは「ピューリタン革命」という言葉に示される通り、「宗教戦争がそのまま市民革命になった国」である。こういう国はイギリスとオランダだけではないだろうか?
17~18世紀のイギリスは積極的自由(信仰の自由)の精神が深く骨まで染み込み、それが個人主義の原型を作り民主主義の根幹になった。(帝国主義の時代にはそれが大きく変質しむしろキニクス派的コスモポリタニズムがイギリス人の特徴になってしまったが)

② またこの国はヘルシャフト(上下の支配関係)に対抗するゲノッセンシャフト(横の連帯)の伝統が中世から存在する。イギリスの民主主義の根源を遡ると、逆説的なようだが、中央集権化を目指す国王に対抗して自分の封建的特権を守ろうとする貴族の連帯という「反近代の原理」に辿り着く。(マグナカルタ) それに対し日本の儒教は朋友を重視する中国と比べても忠孝の上下関係だけを重視している点に大きな特徴がある。

③ さらにイギリスは産業革命以後は常に他国を経済力で圧倒し、従って常に自由貿易を主張する事ができた。この点も経済的劣勢ゆえに保護貿易政策を取らざるを得なかったドイツや日本と正反対である。

④ また、こういう外的条件だけでなく、内的条件、即ち「儒教とピューリタニズムの原理的な相克」も重大な問題である。ピューリタニズムの人間性へのペシミズムと苦難の神義論に対して、儒教のオプティミズムと幸福の神義論。これについては詳しくはマックス・ヴェーバーの「儒教とピューリタニズム」(宗教社会学論文選 みすず書房)を参照されたい。 この記事も参照   
http://bashar8698.livedoor.blog/archives/15774255.html

極論をすれば日本に英米型民主主義、英米型資本主義を定着させるには韓国の様にキリスト教の国に生まれ変わるのが最も近道だと思う。それができないならば英米型とは別の道を捜さねばならないのだ。


(2)国際金融市場の政治的影響力

「日本社会の特殊性」については大東亜戦争中からずっと言われ続けて来た。ルース・ベネディクトの「菊と刀」は80年代後半~90年代の「日本社会異質論」の先駆である。

しかし、昔と今の決定的な違いは、今では国際金融市場という場で日本の特殊性が裁かれ、結論が出される時代になったという事である。

昔は「日本は欧米とは違ったアジア的民主制、アジア的市場経済を目指しているのだ。」と強弁する事ができた。しかし今そういう主張をすれば日本の株式市場が大暴落する。

グローバル化され、しかも実体経済より投機経済が主導する90年代以後ではもはや「非欧米型」というモデルはほとんど許されない時代になったのだ。
唯一「非欧米型」のモデルを未だに追求しているのは中国である。しかし中国は、あの巨大な人口ゆえに欧米に対抗できているのだ。


これは言い方を変えれば「国際金融市場」という実体の曖昧な存在が国際政治経済に超越的な発言力を持ち始めたという事でもある。


この10年ほどは欧米の「日本社会異質論」がなりを潜めている様に見える。最近は、ロイターやAFPや日本語版ニューズウィークで日本を賛美する記事も時々見かける。

しかしこれは中国とイスラムという、より強烈な異質性との対比で日本を持ち上げる傾向があるからだ。日本の異質性が無くなった訳ではない。


(3)従来の日本型の強さの消滅

これは、バブルの頃からの国民性の劇的な変化で、それまで日本の商品の品質を保証してきた「集団主義」が成り立たなくなったという事である。

戦前の日本経済は今の中国と似ていて、賃金の安さと社会保障の低さ、失業率の高さが国際競争力となっていた。しかし少なくとも60年代以後はそうではない。

企業内組合、終身雇用、年功序列型賃金に加え、スペシャリストよりゼネラリストを重視するOJT(on the job training)、下の人間のアイデアを吸収するTQC、提案制度、などなど新しい「日本的システム」が大企業主導で意図的に作り出され、それが戦前よりも柔軟なピラミッドを形成した新たな「系列」の構造と相俟って高度な品質を生み出したのである。(この事が良いのか悪いのかはまた別問題である)


一部は伝統的な儒教的価値観にもとづきながら、新たに作り直された「集団主義」これが国際競争力の元だった。だからこそ欧米が真似をしようとしてもできなかったのである。


ところがバブルの時代からの伝統的倫理の崩壊で、この集団主義が上手く機能しなくなってきた。


(4)「内需拡大」の外圧が文化を堕落させる構造

戦後の日本は伝統文化をほとんど滅ぼしてしまったため、ヨーロッパのオペラやバレエの様な文化産業が成立せず、パチンコやカラオケ、ゲームといった「娯楽産業」になってしまう傾向がある。従って「内需拡大」を図れば図るほど文化が堕落していくという体質になってしまっている。



(5)製造業への固執

相変わらずの「詰め込み教育」のため頭脳型産業への転換ができず、またそうすべきでないと考えている人が多い。従って第二次産業で中国や韓国と競合する事になり、それが東アジアの中で日本が孤立していく遠因のひとつとなっている。


経済のグローバル化が進むにつれ、工場は労働力の安い国へ、資本は利子率の高い国へ移動して行くのは歴史の必然であり、止める事はできない。第2次産業はどうしても発展途上国へと中心が移って行くのだ。最先端産業でもそれは同様である。

欧米と中国の間では「偽ブランド」や「産業スパイ」の問題は生じても「技術移転による産業空洞化」の問題は生じていない。
日本ではこの2つを混同して論ずる評論家が多いが、全く別問題である。



(6)思考力を奪う教育


これまでの日本の教育は「何も考えさせずに丸暗記させる教育」だったと思う。特に社会科の教育がそうだ。

最近アジアの国の高校の歴史教科書が日本語に翻訳されている。
中国、韓国、タイ、インドネシア、フィリピン、ベトナムなどである。近くの図書館に置いてるものは大体読んでみたが日本の教科書が一番つまらない。

ヨーロッパの歴史を例に挙げてみると、ソクラテスと言えば「無知の知」、プラトンと言えば「イデア論」、アリストテレスと言えば「政治的動物」、デカルトと言えば「我思う、故に我あり」、パスカルと言えば「人間は考える葦である」・・・・・・全く最低の教育だ!

レベルが高いとか低いとかと言う問題ではないのだ。
言葉だけ教えて、その中身を教えないという事だ。

ギリシャ哲学はパルメニデスの衝撃で物活論から原子論へと方向転換していったのだが、パルメニデスについて触れていない教科書もある。パルメニデスについて触れないという事はギリシャ哲学のギの字も分かっていないという事だ。

日本の歴史ではどうか?「南都六宗」と言えば「法相宗、三論宗、具舎宗、華厳宗、成実宗、律宗」その宗派の教義を全く教えない。
三論宗が空観派、法相宗が唯識派である事さえ教えない。

朝鮮王朝で新羅は華厳宗、高麗は禅宗、李氏朝鮮は儒教である事さえ教えない。

「不空絹索観音」って何だ?「如意輪観音」とは? 誰も分かるはずもない。

中国史でも同じである。周王朝は封建制、秦は郡県制、漢は郡国制、どう違うのか教師でさえ分かっていない。ただ封建制はなんとなく分権的なのかな、という雰囲気で理解する。

こういう教育をされるとどういう人間に育つだろうか?
「民主主義」にしても「自由主義」「社会主義」「資本主義」にしてもその「概念の論理的構成」を理解できずに「言葉の響きから受けるイメージ」で考える人間になるのではないだろうか?

「自由主義」と「自由経済」と「自由貿易」みな「自由つながり」で同じように考えてしまうのではないだろうか?

「自由貿易」が「先進国が発展途上国から搾取するシステム」である事をどれだけの日本人が分かっているだろうか?

歴史の年号の暗記などは歪んだ教育の最たるものである。憶えきれないから皆「語呂合わせ」で憶えて来たはずだ。

これでは論理的思考が身につかず「語呂合わせ=オヤジギャグ」のセンスだけが磨かれて社会人となるのではないか?今の日本にオヤジギャグが溢れているのは、こういう歴史教育のせいではないだろうか?


何故こういう教育になってきたのか?

それはひとつは「教科書検定制度」のせいもあるだろう。
教科書検定が「検閲」である事は少し考えれば誰でも分かる事だ。先進国でこういう制度を採用しているのは日本だけである。文部官僚は右翼が、そして歴史教科書の執筆者はマルクス主義者が多い。教科書検定の中で激しいやりとりをする内に学者の方も疲れ果て、あまり本質に触れる深い内容は省いて、作品の名前とか年号とか外面的な事を中心とする記述になってきたのである。

しかしそれだけではない。もう一つ重要な理由がある。
官僚達はこの「何も考えずに丸暗記する教育」によって「従順で我慢強い」日本の国民性を意図的に再生産しようとしてきたのである。

日本の官僚は従来の丸暗記教育の中で勝ち残ってきた連中である。
だから教育改革などと言うと自分の存在意義を否定されたように感じてしまう。
「欧米的な考える教育はエコロジストなどを生み出すからよろしくない」彼らの多くはそう考えているのだろう。

今日本は先進的な経済と前近代的な教育との矛盾にさらされているのだろう。歴史教育を根本的に変えなければいけないと思う。